第10回 「月刊ですか?」
月刊への道
このコラムも、多くの方から「読んだよ」の連絡を受けるようになった。
もっとも、その後に「でもさぁ、あれ○○と××が逆だったよ」という忠告が入ったりするから恐ろしい。自分の出した同人誌で日付確認をしたものですら、「だから出た時に間違ってるって、教えたでしょうが」と怒られる日々が続いている。じゃあ若い頃からボケてたのか、私は? たいていの知人が、それを否定してくれないあたりが困ったものだ。
それでも、暫く消息の途絶えていた人からの連絡が多く大変助かっている。あちらから見ると消息不明だったのは私の方らしいのだが……。考えて見たら電話番号と住所が30年近く変化がなくて、アニメックに連絡すれば小牧は捕まえられると思っていた人が大多数だったのだからしかたがないかもしれない。ここまで来たら、第一回からの注釈をあちらこちらの証言をまとめて、きちんと解説しなければいけないのだろうと覚悟している。
同人誌だか商業誌だか境目の曖昧だった「アニメック」も順調に売り上げを伸ばし、会社の屋台骨を支える存在になっていた。今回は32号であった「アニメック」が「月刊アニメック」10月号となった1983年の秋までを駆け足で追ってみたい。
いわば絶頂期の所で連載が完結という、美しいともいえる完結を目指と思う。私小説的な意味合いの強い拙著としては、予定調和という意味も強いのだが。
振り返って、1981年は激動の年であった。
2.22アニメ新世紀宣言、スペースシャトル打ち上げ成功、DAICON III開催、セーラー服と機関銃、そしてなめネコがほぼ並列に思い浮かぶ事項である。スペースシャトルで一歩宇宙世紀に近づいたような気もしたのだが、それから四半世紀が過ぎてもそれ以上の宇宙開発の進展がないあたりは少し寂しい。
先日、ガンダム劇場公開の影の指揮者であった劇場公開時の渉外担当、野辺忠彦氏よりお電話を貰って
「あの時は時代が熱かったのよ。だってファンにぶっちゃけ正直に頼んで、それに彼らが乗ってくれなかったら成功しなかった話だからねぇ」
と言われた。事実その通りだと思う。マスコミが好意的に扱ったにしろ、その視線はあきらかにズレていたわけで、マニアだけが劇場に来ても続編は制作できないと熟知したファンばかりだったのはある意味不思議である。どちらにしろヤマトでのノウハウをもっと泥臭く草の根運動で展開したのがガンダムの宣伝手法だったのかもしれない。
後の伝説巨神イデオンにおける「明るいイデオンキャンペーン」だとこれを逆手に取った感じもあったのだが、ファンが自分たちが利用されることで盛り上がると認識していた面白い時代だったと思っている。
どちらにしろ、数百の会員を抱え定期的にレベルの高い同人誌を発行している組織から、数人が集まってミニコミ誌を作っている組織に至るまで、ガンダムに興味のある集団のほとんどは、「アニメック」と「OUT」が把握していた時期でもある。
現在もそうなのだが、野辺さんの淡々とした説明と、「だから一緒にやろうよ協力してよ」という言葉は、多くの青少年の胸に届いていた。
そういう意味ではアニメ新世紀宣言は錦の御旗として強力であった。正確な所はわからないまま、時代の切り口を反映させるべく多くの新聞や一般紙が好意的に記事にしてくれたわけなのだから。