アニメックの頃… 著/小牧雅伸

第12回 大事典 後編

用語編

アンテナ

最近は規格が統一されているので、テレビアンテナは、付属ケーブルを室内のアンテナ端子に接続するだけで映る。70年代後半は同軸ケーブルを使う概念はあまりなく、屋上のアンテナから平行フィーダーで室内まで引いていた。
当時の最新マンションだと75Ω(最近は50Ω)の同軸ケーブルで分配されている場合もあったが、室内は平行フィーダーでバランと呼ばれる転換器が必要。
なぜか、どこへ行ってもいい加減な配線でテレビの映りが悪く、配線工事をやらされる場合が多かった。最高傑作は「まんが画廊」の大掃除での発見だった。全体にゴーストと色滲みのひどい画面で『ザンボット3』を観ていたのだからみんな我慢強かったのだろう。大学の研究室で余ったケーブルがあったので大掃除の時に、配線替えをしようとして口あんぐり。なんと、室内端子の裏にバランがあり、屋上からのケーブルを平行フィーダーに転換し、それをさらにバランを足して同軸に変換していたのである。これではほとんど減衰装置だ。これを全て外して、ケーブルコネクターにしたが、また映りが悪い。テレビの後板を外したら、平行フィーダーがケーブルに蝶々結びされていた。つまり、電気的にはまったく接触していなかったのである。あれでは映る方が奇跡である。映りの良くなったテレビを観て、スタッフが「さすがは電機大」と褒めてくれたのだが、実に複雑な気持ちであった。

毛蟹売り

伝説のラポート最初のお仕事。創世記の話として代々伝わっている。早稲田大学の学生を中心としたガリ版刷りの「アルバイト情報誌」を学生時代に成功させ起業した海野社長が、その時の仲間で設立したのがラポートである。ちなみにフランス語で「心の架け橋」という意味だというのは、随分後になって聞かされた。その直後に求人情報誌が活性化して、売り上げが激減。何かを仕入れては売るという自転車操業の最中に荒稼ぎに成功した商売。
世田谷のボロ市で雑貨を売っている時に、茹でた毛蟹が非常に売れているのを見て、安く仕入れればと考えたのだが、築地での仕入れ値は800円。これを千円で売ったのでは儲けにならない。「仕入れ額は、売値の半値、8掛け、2割引きが常識である」が信条の海野社長としては千円で売るなら最高でも320円でなければ嫌だったらしい。だが、各自の仕入れ得意分野には毛蟹はなかった。
缶詰や干物は得意な社員が居たらしい。途方にくれて築地市場を歩いていると、半端物の毛蟹が格安で売られていた。蟹はサイズが大きくなるほど食べる部分が多くなる。逆に規格以下のサイズでは捨て値なのだ。鮮度は同じであっても半分のサイズになると食べられる部分は20パーセント程度になってしまうからだ。かくして、この規格外の毛蟹を大量に仕入れ、茹でて売る事になった。だが、そんな食べる部分の少ない毛蟹を買う人がいるだろうか? このあたりがアイデアマンである。大きいザルや笹の葉を用意し、毛蟹三匹千円で売ったのである。原価は300円未満、しかし見た目は通常の毛蟹の倍以上の量だし、ザルや笹の葉で高級感が増していた。売れた、売れた! 飛ぶように売れて、途中で何度も仕入れ、茹でて詰め合わせて会場にピストン輸送したそうである。この時の資金が後のラポートの礎となったのである。ちなみに、翌年のボロ市では大儲けをしたラポートの毛蟹のからくりを知った同業者が溢れ、毛蟹インフレで在庫を残さないように値下げしてトントンの状態で撤収、二度と毛蟹には手を出さなかったそうである。

コーヒーメーカー

編集部の必需品。基本的に10杯用以上の大型を使うが、ガラスポットがよく割れた。それは追加発注で買うわけだが、電気故障の場合はなぜか修理が私の担当だった。空になったポットを空だきすると温度ヒューズが切れるという故障が多く、私の机の引き出しには常に温度ヒューズとドライバーが入っていた。ちなみに、イデオンスタジオには最新鋭のキャリオカ製のコーヒーメーカーがあり、アニメーターに好評であった。物語の中で、ブラジラーを出航するソロシップがドッキングして持ち出した巡洋艦キャリオカは、このコーヒーメーカーが名前の由来である。

週刊ラジオアニメック

最近は「アニラジ」と呼ばれるアニメ情報に特化したラジオ番組の草分け的なもの。当時アニメに非常に強かったニッポン放送のドン上野氏(宇宙戦艦ヤマト特番やドラマで有名)と共同のラジオ番組『ラジオアニメック・決定!アニメ最前線』を何本か放送した後に、東海ラジオをキーステーションに『週刊ラジオアニメック』として放送された。編集長肝付兼太 、アシスタント秋山ルナという組み合わせで始まり、アニメ関連のスクープのある時は小牧が「ものほん編集長」として出演。規模が大きくなったので、ラジオ取材レポーターとして岡本リンコ(ラジオレポーターを出発点に後に声優)等を追加するオーディションも開催した。5人のサブリポーターが選出されたが、都立高校の古典教師が「ミンキー・モモの為なら仕事を捨てる」と発言したので面白がって小牧が追加採用。これが後のミンキー康氏である。『週刊ラジオアニメック』の事実上の後番組『mamiのRADIかるコミュニケーション』(東海ラジオ)は、アニメックがスポンサーに入っていたことや、メインパーソナリティの小森まなみ、ミンキー康と仲が良かったことで、小牧のゲスト出演も多かった。深夜ラジオ番組のパーソナリティーは時代によって変化するが、小森まなみは常に人気ベスト3にランクインしている。ミンキー康も、小森まなみの相方として活躍中である。

新宿2丁目1番地1号

新宿御苑に面した一角だが、実は三件の建物が同じ住所である。元の地主さんは同じということだ。あのあたりはそういう地割りの複雑なところがあり、1丁目1番地は地上にはなくてレストランの二階にしか残されていなかったりする。二件のアパートを地上げしてラポートピアビルが建築されている期間、営業部も編集部も王ちゃんビルに移転していたわけだが、実は残されたお米屋さんを社長室として借りていた。もともと営業部として借りていた所をそのまま残したわけである。なぜそんな無駄な事をするのかわからなくて社長に質問した事がある。なにしろ編集部郵便物を毎日取りに行く係が必要だからだ。理由は簡単だった。株式会社は住所が変わると登記を変更しなければならないのだ。戻ってくるにしても移転の二回で二度も登記簿を変更しなければならない。また大量の封筒や伝票の住所を全て変更しなければならない。ましてや、通販部門があるわけで、この超大なユーザーに全て住所変更を通知する金額も馬鹿にならないし、事故も増えるということであった。というわけで、ラポート株式会社も株式会社アニメックも設立から倒産まで住所や部屋が移動しながらも、登記上は、まったく動いていないのであった。

地球の朝は今

文/星山博之、キャラクターデザイン/出渕裕、セル画/伊藤秀明という布陣で6回連載した小説。神保町で伊藤秀明氏より原画を受け取り、「今受け取った」と編集部に電話した小牧が、原稿を電話ボックスに置き忘れるという珍事を犯した。交番に遺失物届けを出して編集部に戻ると、電話ボックスで拾った早稲田大学漫研の生徒が、「これはアニメックのアレだ」と判断して、小牧の帰社より早く届けてくれていたというオチがある。

中販連(中古車販売連盟)

ラポート関連会社のひとつ。地方へ行くと休耕田に中古車を並べて売る中小の業者が多かった時代である。いかにも中古車を並べて売ってもそう集客率は良くなかった。ここで画期的な方法を思いついたのが海野社長。つまり中古車販売グッズの通販である。「中販連(中古車販売連盟)」という看板があるとなんとなくチェーン店ぽくなる。簡易セットは中販連小旗と万国旗、プライスカード(プラスチックカードに値段をデジタル式に差し替える今では普通の物)、簡単な景品である。これだけでも売り上げが伸びるので好評であり、最後にはテントや来客机、ペナント、飾り台といった什器と、抽選器、景品詰め合わせセットまで売っていた。大手中古車販売チェーン店と同等のイベントが開け、さらに輸入雑貨のルートやアニメグッズのルートを駆使して、来客が喜ぶ景品が多かった。ショップアニメックが軌道に乗るまでは会社の稼ぎ頭であった。そういうアイデア商法がラポートの強みだった。

チョメチョメコーナー

アニメ雑誌のみならず、全ての書籍において、最多の誤植を誇るアニメックが、他紙や新聞の印刷媒体の誤植を糾弾するというとんでもない企画。テレビガイドが親切にもガンダムに詳しい本と紹介してくれた記事が「カクエツ館出版」だったのが始まり。神をも恐れない開き直りであったが、一般紙におけるアニメ表記の無理解を広く告知することになり、なんとはなしに「アニメは世間では認知されていないのだなぁ」という情報発信記事となっていた。上手にいえば「一般の人のアニメに対する無理解を揶揄する記事」であった。

日本マイコンセンター

ラポート関連会社のひとつ。JAMEC(ジャメック)というブランドで、組み立て式のマイコンやソフト販売をしていた。当時としては珍しい表計算ソフトの使い方を教えるマイコン講座などもしている。当時は記録媒体はフロッピーディスク(それも8インチ)で外装は黒一色だったが、本邦初のカラーディスケット(7色)を発売し、マニアに好評であった。ちなみに日本初の機動戦士ガンダムパソコンゲームもここが開発し、ラポートが通販した。88用とFM7用があった。解散後は、ここの代表電話番号が余ったのでアニメック編集部のFAX専用回線となった。それまでは編集部にFAXはなく、営業部のFAXを使っていた。

パスボート友の会

ラポート関連会社のひとつ。「マニフィック」が創刊された頃にはまだ業務をしていた。早い話が「安売り航空券会社」である。ほんとうに何でもしていた会社だと思う。航空機は常に満席で飛ぶだけではなく、空席ができる。空気を運ぶよりは少しでも利益になればと売り出される航空券を手配する会社であった。

まんがアニメック

「アニメック」の別冊として5冊出版し、その後「スティ」と名前を変えて4冊発行した。読者よりも、作家に人気のあったマニアックなコミック雑誌である。ナムコ(現・バンダイナムコゲームス)のゲームキャラクターデザインやイラストを手がけていた冨士弘が社内報に連載した『午後の国』の続編となる長編『午後の国物語』を掲載したりした。この単行本、当初は三万部程度が返品されたが、気長に売って10年で完売という非常に息の長いコミックになった。返本の度に、小口を磨くので、最後にはカバーを切らないと納まらない変形版となっていた。こういうコミックの売り方をした出版社は他にないだろう。

ヤカンの蓋

これも「まんが画廊」の備品のひとつ。当時ネルドリップ方式でコーヒーを抽出していたので10リットルの大きいヤカンを使っていた。大掃除の床掃除では、洗剤で汚れを落とし、最後にヤカンのぬるま湯で雑排槽に洗い落とすという強引な方法を使った。地下なので床の水を捨てるのが手間だったのだ。最後に、ヤカンを傾け過ぎ、蓋が雑排槽の奥深くに沈んでいった。以後、「まんが画廊」のヤカンの蓋はないままであった。はい、犯人は私です。当時の大掃除に参加していた連中には未だに責められる出来事であった。

竜の住む国・美夢と真夢

月刊化記念で1983年11月号より一年間連載した漫画。なんと原作は辻真先、作画は、かずさひろし。最終回の一回前に「張った伏線を全て消化しましょう」と編集長の趣味が爆発して、予定より一回延長の13話となった。その為に一折り16頁厚くなり、再販コストが高くなったので単行本は初版売り切りで絶版となる。人気はあったのだが、自分で自分の首を絞めたような作品になってしまった。

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