第1回 特撮とは何か?

【 解説 】

1954年、武蔵美の研究科在学中の成田は友人に誘われ、『ゴジラ』に特撮美術助手として参加した。それ以来、東宝を始め松竹、大映、新東宝の特撮美術の現場を転々とする。映画の仕事に忙殺されながらも、成田は彫刻制作を継続。55年には美術団体・新制作協会の新制作展に初出品した彫刻『男』が入選するが、生活のために始めたはずの映画の世界でも頭角を現し始める。60年、現代劇に力を入れるため東映は第二東映を発足させ、特撮課を創設。ここで成田は特撮美術監督に昇格し、月8本の映画をこなすこともあった。

成田は特定の美術監督に師事することはなかった。晩年「生涯の師と呼べるのは阿部合成だけだった」と述懐したが、創作の原点は青森で過ごした青年期にある。同郷の阿部合成(1910〜72)は、戦中戦後の社会のあり方に疑問を抱き、画壇から孤立して無頼派的な生き方を貫いた画家だった。京都で日本画を学んだ阿部は、20代半ばで武蔵美の研究生となって彫刻の量塊表現を学んでいる。成田が武蔵美の西洋画科へ進んだ後、自分のデッサンを掴むために彫刻科へ転科したという事実にも阿部の影響は見て取れる。阿部から学んだのは技法ではなく、「ものを観る眼」だった。阿部の友人が小説家の太宰治(1909〜48)であり、太宰の盟友が詩人で評論家の山岸外史(1904〜77)。妥協せず物事の本質へにじり寄ろうとする芸術家や作家の生き様が、成田の脳裏には深く刻み込まれたのだろう。「ホンモノ」を求める精神は特撮においても「リアリズム」の追究へとつながっていく。それは単なる写実ではなく、作家ならではの主観に基づく「現実の再構築」なのだ。

なお、『殴り込み艦隊』(1960)や『ナショナルキッド』(同)で組んだ特撮カメラマン・木村省吾の発案によって、目から鱗が落ちるほどの効果を得た“スチル写真の切り出しによるミニチュア・セット”に関しては、本連載で詳しく後述される。

(清水 節)

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