
撮影/沢海 厚
第2回

昭和47年に誕生したヒーロー“ヒューマン”。舞台劇を公開生放送するというとても斬新な番組だった。
若い頃、映画を見て感動した夜、映画は芸術か、商品かの問題で友達とよく議論しました。そして極めて芸術性の高い商品である。という所に落ちつくのです。芸術は価値が高く、商品は低いという価値づけではありません。分類です。
芸術は無償の行為である。と思っていた頃です。絵を描く場合、最初のエモーション(感動)が凡てであって、その絵を完成させる技術的な途中で最初の感動が薄れてゆく事に一番苦しんでいた頃でもありました。
●映画の製作にはまず最初のエモーションがない。
●映画は何が何でも売れて(観客を動員して)採算がとれなければならない宿命がある。だから残念ながら商品だと分類せざるを得ない。というのです。
観客を動員するのに二つの方向があって
●芸術性豊かな作品を作る方法と
●映画のもつ商品性に徹して、娯楽に徹するか技術に徹して面白い作品を作る方法とがあります。特撮映画づくりは当然後者です。それはリアリズム以外に価値を見つけて映像化しようという事で、ある時は、S・F映画と呼ばれたり、空想科学映画、幻想映画と呼ばれるものです。
それでは実際の映画作りの段階で誰が空想するのか、これが問題です。映画は綜合芸術だからスタッフ一同で空想し考える。勿論一つ一つの撮り方に入ったら、みんなの智恵と努力で撮影は進むのですが、いま言っているのは撮影に入る以前の、企画とか、準備とかの段階の話です。
原作者が空想したり、企画者が、脚本家が監督が、いろんな形があるでしょう。私はウルトラシリーズで精一杯空想しました。主役のウルトラマンは私のデザイン、脇役の人達は私がデザインしたコスチュームを着て、仇役の怪獣も私のデザイン。そして私がデザインしたセットで闘うのです。作品はご存知の通り大当たり。大成功でした。
1968年。私は伊勢丹のディスプレイデザイナーになりました。それは来るべき大阪万博をキッカケに映像ディスプレイの時代が来るのを予期しての事でした。全天全周映像を屋上で開催しましたが、予期した様な映像ディスプレイの時代まではゆきませんでした。
現存するスチールが希少な本作だが、成田氏所蔵のこれはゲネプロ(通し稽古)の記録と思われる。
1972年。私は日本TVの白井荘也氏の依頼で「突撃!ヒューマン」をやりました。公開なまの番組で怪獣ものをやろうと言うのです。考えれば無茶な事を引き受けたものです。
ヒュー、ヒュー、ヒュー、と音楽が始まると30分間舞台の上で失敗は赦されないのです。しかも舞台だから煙は使えない、火薬は使えない、巨大化は出来ない、と悪条件の方が多いのです。「仮面ライダー」の裏番組という理由もありますが不成功でした。
「突撃!ヒューマン」が終った後、私は本当のショーが見たくて一人でラスベガスヘ行きました。スターダストのリドのショーを見る為です。二匹の馬が闘う二人の騎士を乗せて舞台を客席に向って走って来たり、劇場の中を人が乗った二機のヘリコプターが飛んだりのショーを見て唖然としました。ホンモノのショー程、劇場の機構からかかわっているという事、そして大変な訓練のタマモノであるのを知りました。
私は特撮映画に絶望していました。映画の為の特撮だけをやっていました。「戦争と人間」「最後の特攻隊」「氷雪の門」「新幹線大爆破」などで昨年の「麻雀放浪記」まで続きます。
人間のどんな仕事もタイヘンだと思いますが特に特撮映画づくりは根気と忍耐の仕事です。その底流には脈々と情熱が流れているのです。顔で笑って、心を燃やす。コールド・パッション。これが特撮マンの姿勢です。
日本の特撮映画の低迷から抜け出す活路があるとしたら、この情熱を取りもどす事でしよう。
情熱をとりもどしたら、じっくりと現実を見る事でしょう。S・Fとかマンガにまどわされずに特撮とは何かを考える事でしょう。
そして子供を大切に考える事でしょう。
子供に見て貰う映画だからこそ大人は全力投球をしなければならないのです。
自分は何か? 何をすべきか? そして、
ホンモノの特撮映画とはナニか?
を考える時のようです。
(初出:「模型情報」85年7月号)