
撮影/沢海 厚
第3回

1954年春だったと思います。私は武蔵野美術学校の彫刻科の教室で一人で彫刻を作っていました。私は彫刻科を卒業して研究科にいました。それも本人が研究科と思っているだけの話で本当は居そおろうだったようです。彫刻はモデルを使わないと出来ません。モデルは高いので研究科などと自分達で勝手にきめて卒業しても学校へ行っていたという訳です。もっとも彫刻科といっても一学年二名から三名、だから一年から研究科から一教室でした。それはもう家族と同じでした。
東宝でアルバイトをしているはずの富樫が息を切って教室へ入って来ました。富樫は二年後輩でした。この髭もじゃらの男が神聖なる彫刻のアトリエに映画のアルバイトの話を持ち込んだのです。それも怪獣映画などと言う聞いた事もないとっぴょうしもない話を。
間に合わないからすぐ来てくれと言うのです。ゴジラと言う怪獣がこわすビルを作る為に。家へも帰らず電話だけをして東宝撮影所へ行きました。行ったが最後帰してもらえません。徹夜です。石膏だらけの徹夜です。水道の水を汲みに行くに遠いので、どぶ川から水をすくって石膏をときました。こんなひどいバイトはもうやらねえぞ、と思い乍ら何とか間に合わしたようです。ゴジラは私はピンチヒッターでほんの何日間か行っただけです。
当時私の心は彫刻のみに燃えていましたが彫刻家では食って行けないのも充分承知していましたので映画の仕事にもかなりの興味はありました。
青森高校の頃から演劇部に入って舞台装置も少しやりましたし、兄が俳優座の研究生だったりして高尾山中腹のアパートには俳優座の人達がよく来ました。無名時代の安井昌二とか小田切みきさんとか八橋卓とかです。高尾山中腹の閉鎖中の脳病院を借りて住んでいたのです。脳病院の病室で夜を徹して、演劇論をやり又武蔵野美の友達とは彫刻論を斗かわしていたのです。
1955年春。またゴジラをやるんだけど今度は最初から石膏造型スタッフに入ってくれと言われて武蔵野美彫刻科グループが出来たのです。
私達の仕事はゴジラがこわすビル造りです。今回は大阪の中之島附近をこわすという事で、みんなでビルを一つづつ担当しました。私は大阪市庁です。約2ケ月位この制作にかかったと思います。このグループは素晴らしく意欲的なグループでしたから、毎日ミーティングを重ねて前回より良いものにしようと張り切っていました。良いという事は、見栄えが美しいという意味もありますが、何よりもうまくこわれるという事です。目的はリアルにこわれるという所にあるのです。私達は前作のゴジラでやった石膏板を立てて組み合わせて行く方法を止めて、ベニヤ造りのパネルの間に、石膏を流して行く方法を取りました。家を建てる時のコンクリート流し込みと同じです。
デザインに従って大工さんが作ったパネルが出来ました。これに丹念に分離剤(油)を塗ってステージの市庁が立つべき所にこのパネルを外側と内側に立てるのです。当時の建物は鉄骨でなく鉄筋でしたので細いヒューズに色を塗って何本も立てます。針金だと強くなってうまくこわれないからです。又こわれた時ヒューズが光ると困るので色を塗るのです。これだけの準備をしてからいよいよ石膏の流しこみです。石膏も割れた時白い色が出ると失敗なので墨汁を入れます。先づ下の方の流し込みは石膏だけにします。一度流したら砂をまきました。次に流す石膏とうまく分離させる為です。上の方の流し込みになるに従って石膏に石灰プラスターを混ぜるのです。石灰プラスターは弱いからです。最後の流し込みは半分づつ位にしました。この今にも倒れそうな壁面を注意に注意を重ねてパネルをはずします。壁面だけが立つと、これに蛇腹とかテラゾーとかコリント風の柱とかを着けて行きます。これもバラバラに折ってから着けます。表面をプラスターで修整して石膏作業の終りです。あとは着色をして、窓を入れたり文字を張ったりして完成です。
この様な作り方をすれば、ゴジラとアンギラスの体当たりで自然にリアルにこわれる筈です。
若い彫刻家達が前例のない課題に取り組んで何とか解決したようです。富樫達の大阪城は四苦八苦していましたが私達はそれにかまわず美津濃ビルと富士銀行ビルヘと移りました。
今年春ひさし振りのゴジラの再来を見ました。立派なセットが出来ているのですが、こわれる技術を見て、私達のやった方法をなつかしく思い出しました。
この石膏グループはそれから何年か東宝、松竹、大映を渡り歩いたのです。そして今ではそれぞれ立派な彫刻家になっています。富樫一は亡くなりましたが、赤荻賢司、東喜久男の自由美術の組と二科会の権藤武政、新制作の佐藤祐司、照井栄、そして私と言ったメンバーでした。
それ以後私は映画の美術監督にもなって随分たくさんのビルをこわして来ましたが、このゴジラの逆襲で作った方法は二度とやっていませんし、他の映画でも見た事がありません。製作に日数がかかり過ぎて経費がかさむのと約一ケ月ステージをこれだけにおさえられるからです。しかし何時かはもう一度この方法を試みてビル破壊の決定シーンを撮りたいと思っています。
(初出:「模型情報」85年5月号)