成田亨と特撮美術

撮影/沢海 厚

第5回
零戦のミニチュアーと私

戦争をしていた頃、私達は零戦と言う名前を発表されていなかったのに、誰からともなく囁かれて知っていました。

戦争が終って数年、私は東宝、松竹などを造型の仕事をしながら渡り歩いていましたがこの間に何度か零戦のミニチュアーとつき合いました。「太平洋の嵐」などでした。1960年東映へ行ってからは、撲り込み艦隊、南太平洋波高し、最後の特攻隊、そして松竹の 駆逐艦雪風 などです。当時零戦とのつきあいで一番思い出深いのは、フジテレビと国際放映の「Oファイター」です。これは白黒の30分番組でしたが、その半年分位の特撮だけをまとめて2ケ月位かけて撮りました。なにしろ脚本家でプロデューサーだった直井欣也さんは、もと零戦のパイロットだったのです。零戦空中戦法をすっかり教えてもらいました。ミニチュアーは大きいので90センチ、小さいので10センチ位のものを何種類か作ります。材質はクローズアップ用の大きいのは金属をたたき出して溶接して作り、それ以外のは大体バルサを削り出して作ります。模型屋さんが大変なのです。一番小さいのはプラモを買って来て使う場合もありますが、軽すぎて飛ばしにくいので腹の中に鉛を入れたり、かなり加工しなければ無理です。

思い出と言えば、零戦のO・P・L(機関砲照準器)が操縦士のまん前にあったのか、少し右へずれていたのか、それから九七艦攻が魚雷を投下した後、魚雷をさげていた鎖はどうなるのかなど判らなくて 丸の本社、海人社、東郷会、零戦会など歩きまわっても判らず、その日ラバウル航空隊の生き残りが駒形のどじょう屋に集まると聞いて、私は一人でそこへ出かけ撃墜王の坂井三郎さんや整備の稲田正二さんに聞いてやっと判ったのを憶えています。私達は映画美術をやるのに、判らない時はとことん探します。可能な限り、真実を追うのが映画美術の仕事だと思っています。

時々ひどいドキュメンタリーを見ると腹が立つのです。特攻作戦というドキュメンタリ
ーに零戦がうつって垂直尾翼にA-1とかいてあるのです。A-1は赤城の艦載機ナンバーです。赤城の零戦が特攻に行くはずがないのです、とっくに沈んでいるのですから。そんな日は私はヤケ酒を飲むしかありません。

(初出:「模型情報」85年2月号)

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