押井守、『ブレードランナー』を語る!
物語はオーソドックス
──押井さんは今回の『ファイナル・カット』はもうご覧になったんですか?
押井 ええ、ズルして見せてもらいました(笑)。僕は『ブレードランナー』という作品は、映画館では3回ぐらい見たかな。あとはTVで放映されたものとかビデオとかDVDとか。その中ではディレクターズカット版がいちばん気に入ってます。今は当時に比べていろいろ技術も進んでるから、今回のバージョンでは映像自体はかなりブラッシュアップされてる感じですね。今のデジタル技術を使えば、当時いわばキズとしてあった部分を全部きれいにすることはもちろん可能なんですよ。ただ、僕は別にそういうキズがあってもなくても『ブレードランナー』という作品の評価は変わらないし、これだけ時間がたってるにもかかわらず、公開当時と比べて遜色なく見ることができるというのは凄いと思う。そういう映画は珍しいですよ。さっき挙げた『2001年宇宙の旅』とかの例外を除けばね。逆に今ではそういう映画は絶対できないだろうと思う。
──では、単に画面がきれいになったこととかには、あまり興味がない?
押井 僕はあまりそういうのに興味を持たないので。逆に言うと途中の15分を見るだけでもいいんですよ。1本の映画を通して見るという習慣はあまり無いんです。
押井 僕にとって『ブレードランナー』という映画は、ドラマじゃないんですよね。もちろん基本的な物語というものはありますよ。一種メロドラマ風というか、ある意味でハードボイルドを下敷きにした構成になってるわけだけど。主人公は挫折して疲れた孤独な探偵(デッカードは元特捜隊員という設定)で、人生のどこかで敗れて隠棲してる男で、そこに女が現れて…。典型的なハードボイルドのパターンですよね。正体不明のステッキついた警官が出てきたりして、まともな人間がひとりも出てこない。これってハードボイルドの王道ですよ。最後に彼女と一緒に逃げ出すところまで含めてね。そういう意味では、決して目新しい物語ではない。
──ドラマの作り方としてはオーソドックスであると。
押井 つまり最初に言った「映画はビジョンだ」ということなんですよ。ドラマは繰り返されるけれども、ビジョンというものはその時に生み出すものだということですよ。
──でもファンとしては、ゾラの登場シーンで不都合のあったところがきれいになってたりしてとてもうれしいのですが…。
押井 いや、ああいうのはむしろ簡単ですよ。たぶん今回のバージョンでは、リドリー・スコットは何の苦労もしなかったと思う。そういったキズを消していくこと自体には、僕はあまり意味があるとは思わない。
しょせん映画はすべて嘘なので、どこまで本当らしい嘘をつけるかということが勝負なんでね。むしろ20年近い時間が流れてなおかつ最初の興奮が蘇ってくるかどうかが重要。そういう意味では、この『ブレードランナー』という映画はまだ寿命がきていないんですよ。まだ生きている。生きているフィルムなんだということを確認できれば、見るのは5分でも10分でもかまわない。
──「本当にいい映画は時代の流れに耐えうる」、『ブレードランナー』もそういう映画だということですね。
押井 まあこうして絶えずバージョンが更新されるとか、ビデオからLD、DVD、さらにその先とメディアのコンバートを乗り越えてまたリリースされるとかね。それはその映画がまだ生き続けてるということ、その映画を求めるお客さんが存在しているということですよ。
別バージョンを買うのは、年貢を納めるようなもの
──今回は五枚組みセットなんてものまで出ますからね。
押井 僕もたくさん持ってますけど、でも僕から言わせれば、それは僕がリドリー・スコットに税金を払ってるだけなんですよ。たぶん、いくら払っても追いつかないぐらい恩恵をもらってる。だからそれは気にならないし、今日なぜ僕がここにいるかというと、ここでしゃべればその五枚組みのセットをいただけると聞いたからです(笑)。
──そんな理由で!?(笑)
押井 実は現物支給に弱い男なんですよ(笑)。別に自分で買ってもかまわないんだけど、買うよりももらう方がありがたみを感じるの。だから、映画の宣伝とかに借り出された時は、必ず「DVDください」と言う(笑)。自分で買ったものはほとんど見ないですね。
僕はものをもらうのが大好きなんですよ。それにもらったものは覚えてるけど、買ったものは忘れちゃう。だってアマゾンでクリックするだけで買えちゃうんだから。そんなのすぐ忘れちゃうでしょ。「あれ、俺いつの間にこれ買ってたんだ?」て感じで。だから『ブレードランナー』だけでも、二重買いしたことが2回ぐらいありますよ(笑)。「このバージョンは、もしかしたら買ってなかったような…」で思わずクリックしちゃう。
──まあ今回の五枚組みセットは全パージョンがそろってますから。
押井 これが最終…ではないだろうけどね(笑)。
厳密に言えば、映画っていくらでもバージョンアップできるものですよ。さっきも言ったように、その映画の寿命が尽きていないかぎり、その映画を必要とするお客さんがいるかぎり、映画というのは繰り返し見られるべきだし見られる価値がある。
──昔のままじゃダメなんですか? 多少のバージョンアップは必要なんですかね。
押井 それは言ってみれば、税金払うんだから領収書ぐらい出してくれ、ということですね。それがバージョンアップ(笑)。まあ言ってみれば儀式みたいなもんでしょうね。僕の作品も、メディアコンバートされるたびに「また買わされるのか!」て言う人がたくさんいると思うんですよ。一部では「年貢」と呼ばれてるらしいですが(笑)。だから年貢を納めてもらうかわりに、多少だけど色つけときましたよ、ということですよ。そいうエクスキューズ(弁明)が必要なわけですよ。作者が生きていればね。リドリー・スコットも、たぶんそう思って作ったんですよ。
──じゃあみんなも年貢を払えと(笑)。
押井 まあ年貢は強制ではなく自主的に納めてもらうべきものなので、払いたくない人は払わなくてもいいんですけど(笑)。で、払わない人が増えた時が、その映画の寿命なわけですよ。
──なるほど。そういう意味では『マルタの鷹』なんて今でも駅の構内で500円で売ってたりしますよね。あれもひとつの生き残ってる証明なんですかね。
押井 あの作品は、ある特殊な人間にとってはいまだに生きてますよね。つまり『ブレードランナー』という映画は実はハードボイルドの映画を下敷きにしてるし、僕が作った『イノセンス』は『ロング・グッドバイ』というアルトマン監督の名作を下敷きにしてるわけです。そういう作り方をしてる監督は、おそらく僕やリドリー・スコットだけじゃない。ほとんどの映画はそうやって作られているわけですよ。つまり映画というもの自体が、かつて監督自身が決定的な影響を受けた映画作品に対する税金であり、お礼でもあるんです。
ドラマかビジョンか
押井 最近のDVDの特典でコメンタリーとかが流行ってますけど、あれって結局は内輪の自慢話になってしまうのがほとんどなので、僕はあまり好きじゃない。『ブレードランナー』では途中交代なんかもあって脚本家だけで3人も出てきて「この場面は俺の手柄だ」「ここのセリフは俺が直した」とかいろいろ言ってるけど、僕にいわせればそんなの関係ない。誰が脚本を書こうがどうしようが、結局あの映画はリドリー・スコットが作ったものなんですよ。あの映画に命を吹き込んだのは彼なんです。ドラマを誰がどう書いたか、そんなことはどうでもよろしい。それでこの25年以上の寿命を保ったわけじゃないんですよ。
『ブレードランナー』の寿命を保ってる細大の理由はふたつあると思う。ひとつは、圧倒的なビジョン=世界観があるということ。映画は世界観なんですよ。ドラマが見たいならTVドラマを見てればよろしい。物語だったら小説を読んだ方がおもしろい。人物像とかキャラクターということでいえば、文学作品を読んだ方がいい。人間を深く描きだすことにかけては映画よりも向いてるから。
たかだか2時間もない映画というメディアが他のジャンルより優れている部分というのは、結局ビジョンなんです。見る者を張り倒すような衝撃を与えることができるビジョン。これは他のどんなメディアにもマネできないものです。
──つまりは「絵」であると。
押井 絵だけではなくて、そこにはヴァンゲリスの音楽があるし、絵と音楽の組み合わせは無限の可能性を発揮できる。そこに付け加わるのがデッカードというキャラクターだったり、セリフや言葉といったものなんで、そちらがメインじゃない。映画はビジョンなんであって、ビジョンを実現した映画は死なないということなんです。
もうひとつの理由は、僕もよく使う手法けど、わざと難解にすること。
──煙に巻いてしまうということですか?
押井 ええ、1回や2回見ただけではわからないようにする。それは『2001年宇宙の旅』も同じなんだけど、お客さんに親切にわかりやすく作った映画というのは、あっという間に消耗する。『ブレードランナー』というのは様々なメタファー(隠喩)とか寓意がありますよね。意味ありげな折り紙とか。「あの折り紙って何なんだろう」「あのユニコーンは何なんだ」と。それだからこそ逆に言えば、最初に公開された時にあまり興行的には成功しなかった。
──最初の公開時にはナレーションで説明が入ってたり、明るいハッピーエンディングにしてあったりして、多少わかりやすくなるようにアレンジしてハリウッド映画らしくしてありましたね。
押井 無理やりそうしたんでしょうけどね。スニークプレビュー(覆面試写会。予備知識を与えずに一般観客に試射を魅せ、その反応を参考に一般公開向けの最終的な編集仕上げを行なうシステム)の結果でしょう。でもあれをわかりやすいと感じるのは、マニアックな一部の人たちであって、一般のお客さんはさっぱりわからないという反応でしたよ。だいたいレプリカントって何なんだかわからない。人造人間だという説明はあるけど、映画では明らかにそういう描き方をしてないし、あれは何のメタファーなんだと。
だいたいあのナレーションとかは映画としては必要ないですしね。ナレーションでは離婚してどうのこうのとか言ってるけど、そういうのは必要ないことなんで。観客が勝手に想像する方が、映画としてははるかに楽しめるわけですよ。このデッカードという男って何なんだろう、どうして特捜班を辞めたんだろうとかね。そういう仕掛けをいろいろ作っていく、つまり「ある程度わかりにくくする」ことで映画は長生きするんですよ。
──『イノセンス』を見た時に、わからないと言って悩んでいる人がいましたが。
押井 わかるまで見てくれ、ということですね(笑)。それは決して詐欺とかそういうことじゃなくて、ビジョンを建てるためにはドラマのわかりにくさが必要というか。僕はどうも、ビジョンとドラマは両立しないんじゃないかと思ってるんですよ。『2001年宇宙の旅』が公開された時には、まったくわからないと言われた。
僕が今やってる映画(『スカイ・クロラ』2008年公開)はドラマをきちんとやるというのがテーマだから物語自体は通りのいい、わかりやすいものにしてありますけど、僕自身の意見としては映画はわかる必要はないといまだに思ってる。理解する必要はなくて、感じ取るものだと思う。いくらでも考えればいいんであってね、エンターテイメントというのは基本的に「1回見ればわかりました」というものなんだけど、それは本当に自信を持って披露すべきものなんだろうか、と僕は思うんですけどね。何度でも見たくなるということが大事なんじゃないでしょうか。
ビジュアリストという人たち
──なるほど。ビジュアルの構築ということで言えば、『ブレードランナー』のスタッフにはシド・ミードをはじめとした凄いメンバーが参加しているわけですが、リドリー・スコットはこうした美術部門のスタッフにかなり細かい注文を出していたらしいですね。
押井 リドリー・スコットは、ずっとカメラの奥に居たらしいですね。役者の傍まで行って演技指導をするということがほとんど無かったそうです。つまり彼は、基本的にはビジュアリストなんであって、ドラマの演出家ではないんですよ。最近の『キングダム・オブ・ヘブン』なんかでも、彼が実現したかったのは圧倒的なビジュアルなんであってね。まあ以前に比べれば役者さんに対するメンテとかは良くなったかもしれませんが、かつてはシガニ・ウィーバーとかはかなり苦情を言ってたみたいですよ。「なぜ監督はこちら(役者の側)に来ないのか」ってね。彼女に言わせれば、監督はカメラのこちら側に居るべきだということなんです。
──なるほど。ハリソン・フォードも、あまり(リドリー・スコットを)好きじゃないと言ってましたね。
押意 ハリソン・フォードとしては、この『ブレード・ランナー』という映画は自分のフィルモグラフィーから消したいぐらいなんでしょう。つまり大した役者じゃないということです(笑)。だって彼はその後『ブレードランナー』に匹敵するような作品に出演してますか? 僕は別にハリソン・フォードを好きでも嫌いでもないけれど、ある時期にこういう凄い作品にめぐり合ったということの意味を理解できないのであれば、つまり「夕食を共にする相手ではない」ということですよ。ビジネスとして付き合えばいい相手なんですね。まあリドリー・スコットという人自身を僕はくわしく知らないけれど、たぶんあまり友達は居ないと思う(笑)。
──監督というのは、その方がいいんでしょうかね。
押井 逆にスタッフ、例えばシド・ミードね。僕は『ブレードランナー』でのミードのスケッチとかデッサンを見せてもらったことがあるんですが、使われていないものがずいぶんあるんですよ。でもそのこと自体に対してミードは何も言ってなかった。むしろ「リドリー・スコットは、自分のデザインの本質みたいなものを上手く活かしてくれた監督のひとりである」と言ってる。ビジュアリストとして、お互いわかってるんでしょう。
それから、『ブレードランナー』のシド・ミードって言うと、スピナーの話になっちゃうんだけど、僕、実はスピナーってそんなに好きじゃないんですよね。むしろ素晴らしいのは建物のデザインで。最後のほうに登場する人形の館とか、あのあたりの仕事は最高にしびれましたね。