『ビジュアル・フューチャリスト シド・ミード その創造と秘密』

押井守、『ブレードランナー』を語る!

見えないことが想像力を刺激する

──同じような苦労が押井さんにもあると思うんですが。現在作業中の『スカイ・クロラ』でもメカニックデザイナーの竹内敦志さんとか、美術の永井一男さんとかが凄いビジュアルを持ってきた時でも、場合によっては「こんなの使えないよ!」って放り出したり?

押井 いやいや、そんなことしませんよ(笑)。

──切ったりする時なんかは、どういう風にするとうまくいくんですか。

押井 もともと描かれてる情報が100だとすると、映画の画面にする時は70ぐらいにするんですよ。最初から落とすことが決まってるんです。全部を見せないことでフレームの外に広がってくる。画面の中に見えていない部分を暗示的に見せるというか、想像させるためには、あえて見えないところを作らなきゃいけないんです。

──描かれたものをフレームいっぱいに見せてしまうと、フレームの一歩外には何も無いように見えてしまうわけですか。

押井 でも消すためにはそこにあらかじめ描かれていなければならない。描かれてないものは消せないから。だからアニメーションの作業も実写の映画も実は同じなんだけど、作ったものは全部見せようなんて思ったら結局スケールが小さくなるんです。あえて隠したり消したり切ったりする。だから、ガスだとか雨だとか夜だとか、そういったことには映画的必然性があるんです。まあ光のにじみとかとういったことで表現できる領域というものがどれだけあるかですよ。作り物を全部見せたら、それはたぶん映画にならない。それは作り物を撮ったことにしかならないんであって、それは未来の都市を撮ったということにはならないんですよ。まあ、せっかく作ったものは全部見せたくなるのが人情ですけどね。

でも『ブレードランナー』の場合は今見ても驚くぐらい合理的に作られてるので、無駄なことは何ひとつやってないですよね。書割(かきわり=薄板などに建物や背景を描いたもの)で済むものは書割で、マット画(合成用の背景画)で済むところはマット画で済ませてるし、最小限のセットと最小限の合成だけで作り上げてる。そこがまた凄いところなんですよね。何故それが可能なのか。映画に先行して明確なビジョンが見えてるからなんですよ。だからこそ『ブレードランナー』という作品は、技術的に古くなろうがどうしようが、リドリー・スコットがイメージした「地獄のような未来」「デストピア的な未来像」というものを誰も乗り越えられていないんですよ。それ以上のものが見えないから。

作り物の世界を扱う監督には共通することだと思うけど、作り物の世界を描いているからこそ現実以上の現実感が必要で、架空の世界を信じさせるということを何よりも優先させなければならない。そこに隙間が見えた瞬間、その映画自体が壊れてしまう。だからどんなに苦労したカットであっても、不必要だったら切るしかないんですよ。今ならデジタル技術でちょこちょこっと直すことができるけど、この当時はそういう技術は無かったわけだから、おそらく相当な数の没カットがあると思いますよ。だからバージョンが更新されても、別に新しいカットが追加されないんですよ。たぶん撮ったけど没になったカットはたくさんあるだろうけど、でもそれは使えないんです。むしろ使わないことが大事なんであって、それがこういう架空の世界を作り上げる方法でもある。

結局は削り落とすことでしか生まれてこないリアリティというものなんです。ある種の人間には、そういう苦労をしてでもなおかつこういう世界を作り上げたいという奇妙な情熱があるんですよ。

リアリズムがすべてではない

押井 僕に言わせれば、リアリズムというのはひとつの様式に過ぎないわけです。リアリズムの映画だけが本物で他は作り物だなんて言われれば、架空の世界を作り上げてるアニメーションの監督や特撮の監督はみんな「それは違う!」と叫ぶはずですよ。

リアリズムという考え方自体は、映画の様式のひとつでしかない。もともと映画にリアルなんて無いですよ。映画というものは、全部リアルじゃなくて当たり前なんです、現実じゃないんだから。もっと言えば、ここにこうしてある現実だって全然リアルじゃないんですよ。僕はたぶんこの後、家に帰る車の中で寝たら、今ここでのことなんて全部忘れてるだだろうし。そういうことで言ったら、リアリズムというのは人間がものを見る時の了解の形式に過ぎないんです。そう思うからこそ映画という仕事を選ぶのであって、映画というのは「嘘をつくことで本当のことを語る」というものですから。だから写実主義で作られた映画がいかに本物っぽく見えたとしても「だって映画ですよ?」ということになる。そこにいる人物は誰かの演技をしてるだけで、たとえば映画の中に死体は存在していないんだから。どんなによくできていても、それは死体の演技をしてる役者か、死体をかたどった作り物です。

その考えを敷衍(ふえん)していくと、こういう映画の価値というのは改めて見えてくる。どんな古典的な名作よりも、この『ブレードランナー』のような映画の方が、作り物の中に映画の本質が立ち現れてくるというころを如実に示している。だから『仮面ライダー』とかの特撮ものの世界を軽蔑している人には、映画の本質は見えてこないと僕は思う。だからといって特撮やアニメーションをやってる人間が全部えらいわけでもないし、凄いビジョンや映画の本質を実現してるわけでもない。それができるというのは特殊な才能だし、その実現のためにはいろんな努力をしなければならないですよね。僕はリドリー・スコットという監督は大好きですよ。僕は今、世界中の監督の中で「この監督にはもしかしたらかなわないかもしれない」と思う監督はふたりしかいない、大法螺を吹くみたいだけどね。

そのふたりというのは、リドリー・スコットとデビッド・リンチです。このふたりには、もしかしたら勝てないかもしれない。勝つというのは変な言い方だけど、どこかしら驚嘆するというか、圧倒される部分がある。ただしリドリー・スコットの場合、本当にいい仕事をするのは3本に1本ぐらい。でも3割というのは実は大した数字ですよ。

──押井守は、もう少し打率がいいように思いますが。

押井 僕はね、本当の打率は出さない主義なの。振り逃げしたり、自分から球に当たりに行ったりね(笑)。三振したという印象を残さないようにしてる。自分の作品で自分が納得してる映画って、実際にはそんなに多くない。

──『真・女立喰師列伝』はおもしろかったですよ

押井 ありがとうございます笑)。僕が今日ここに来て言いたかったことは、予感として言うんだけど、おそらくこれから10年20年たってもたぶん僕は『ブレードランナー』を見るだろうし、見に来るお客さんもいると思う。もしかしたら、映画という形式の中では『ブレードランナー』のこの方法論を超えるものは無いのかもしれない。そんな気がします。

──そういう凄い方法を確立したということで、やはりこの監督は偉大ですよね。

押井 でも、実はリドリー・スコットはそこまで考えて作っていなかったと思う。とにかく、手元にあるものでやるしかなかったんでしょう。映画というのはおおむね、そういう時にこそ新しい方法論を生み出すものなんですよ。

新作『スカイ・クロラ』

──では最後に、少し『スカイ・クロラ』の話をしたいんですけど、今回、脚本やデザインを外のスタッフにまかせたとしても、それをちゃんとまとめていくのが監督なのかなという気がします。だから押井さん自身が脚本を書かないにしても、やはり『スカイ・クロラ』は押井ワールドになるということですね。

押井 もちろん、というかそうでしかありえないですよ。変わったといっても単に心境というか気分が変わっただけであってね。もちろん10年前の僕と今の僕は変わってますよ。人間というのは常に変わっていくのが当たり前のものですから。むしろ変わっていくことを拒否すれば、逆に自分自身ではありえなくなってしまう。自分自身であり続けるために、たえず変化していくんだということですね。なんか素子(『攻殻機動隊』の主人公)みたいなセリフだけど(笑)。でもそれは確かなことですよ。

 だから今はそういう心境であるだけであって、別に僕自身が変わったわけではない。ただ、当面のところ実現したい映画が微妙に変わったということです。結局『スカイ・クロラ』という作品でも異世界を扱っているわけで、少年少女たちがSHOWとしての戦争を戦うという世界を作り上げるために、実は『攻殻機動隊』よりも努力しなくちゃならなかった。まあそれは見てもらうしかないわけですが。一見、今の現実のように見えて実は微妙に違う世界、それを実現させるために『攻殻機動隊』の時のおそらく数倍は努力したなと思う。それは、逆に気がつかないようにこれ見よがしにやってないだけで、依然として方法論は変わってないですよ。

──じゃあ「変わってないから、昔からのファンも安心して見に来いよ」ということで。

押井 うーん、僕は基本的にそういう風に考えて作った映画は無いんですよね。自分としては毎回、以前とは変わったものを作ってるつもりなんですよ。それでも変わらないものがあるとすれば、それがたぶん自分、押井守というものなんだろうと思ってるだけです。同じ事を繰り返す気は無いにも関わらず、結局どこか同じ映画を作ってしまう、たぶん映画監督ってそういうものなんだと思う。リドリー・スコットもやっぱりそうでたとえば『ブラックホーク・ダウン』なんかも、どう見てもリドリー・スコットの映画ですよ。僕はこの映画も好きで、リドリー・スコット久々の大ヒットだなという感じで15〜16回ぐらい見ました。まあ彼はこの他に「何を考えてこんなもの撮ったんだ?」という作品も撮ってますけど…(笑)。

彼と僕が違う点というのは、僕は彼よりももっとささやかな規模なんだけど、そのかわり好きなことをやってるというだけであってね。もし彼が今、自分のやりたいことをやろうとすると膨大な予算が必要とするわけで、それはビジュアリストの宿命なんですよね。どんどん妄想が過剰というか過大になっていく。いつかはそれで破産するわけです。でも彼は非常にクレバーな人でもあるので、1作ごとに方向性を変えていくことで対処してる。

──自分の様式とか形式自体をマネしはじめたら、それはすでに自己模倣ですからね。

押井 そうはならないという自信が僕はあるし、たぶん彼もあると思う。なぜかというと、いつも映画に対して新鮮な気持ちで迎えようとしてるから。だから僕はそのために、ふだん映画を見ないようにしてるだけであって、偶然目に入った映画しか見ない。出会い頭に見るのこそが、映画の正しい見方だと思ってるから。映画を好きでいるということは、監督にとっては仕事でもあるわけです。映画が好きでなくなった時には、自己模倣になったりただのパクりになったりするんだと思う。でもそれは、何らかの表現を極めた人間にはありえないんじゃないかと思う。リドリー・スコットというのはそういう貴重な監督のひとりだし、極論すれば彼の映画だけ追いかけてればそれでOKなんだよとも言える。それは僕が彼のフォロワーだとかファンだからではないんですよ。さっきも言ったけど、彼が作ったゲートをくぐるしかなかったから。それは、彼よりも後に生まれた監督の宿命なんです。そういう作品を一生の間に1本でも作れた監督というのは、全映画史を通して見てもそう多くはいない。僕は数人しかいないと思う。それはゴダールの後には決してゴダールが登場しないのと同じです。リドリー・スコットが作った『ブレードランナー』というゲートは、未だにそこ以外を通過することを許さない存在なんですよ。

ビジョンの総量

押井 実は3日ほど前に今回のバージョンをズルして見てしまったので、今後2〜3年はたぶん『ブレードランナー』は見ないと思う(笑)。

──でもたまには大きな画面で見たいんじゃないですか?

押井 ああ、僕は画面の大きさは気にしないんですよ。お客さんにとっては違うと思うけど、僕は小さな液晶画面だろうが大スクリーンだろうが変わらないんです。2〜3カット見れば全部思い出しちゃうんで、実際に画面を見るのはきっかけに過ぎない。だから5分10分しか見ないんですよ。最初に見た時のビジョンの総量みたいなものが蘇ってくればそれでじゅうぶんなんです。『ブレードランナー』という映画に関して言うと、ビジョンの総量というのはまったく変わってないですよ。ヴァンゲリスの音楽が流れ始めた瞬間から、全部思い出しますね。それはたぶんハリソン・フォードがどうこうとか、そいうことではないところにこの映画の素晴らしさがあるということですよ。たぶんここにいるお客さんたちはすでに何度もこの映画を見てると思うんだけど、これはそういう、ある種の中毒性を持った映画だから。見ずにいられない時がある。でもそこで見てしまわないことが、監督である僕にとっては大事なんです。

 

Profile

押井守(映画監督)

映画監督。1970〜80年代にかけ、数々のTVアニメシリーズで絵コンテ・演出・脚本等を手掛ける。1983年、『うる星やつら オンリー・ユー』で劇場用作品を初監督、以降『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『機動警察パトレイバー the Movie』等ヒット作を発表。1995年に公開された、映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は米国で高い評価を受け、海外でのANIMEブームの牽引役となった。実写映画では『紅い眼鏡』シリーズ、『立喰師列伝』シリーズ、ポーランドロケを敢行したSF大作『AVALON』などがある。現在は2008年公開の最新映画『スカイ・クロラ』に取り組んでいる。