エモーション魂〜渡辺 繁と彼を支えた縁人(えにしびと)

第19回 どん底からのリスタート

『王立宇宙軍』公開後、心身共に疲弊した渡辺は、ついに倒れ伏す。無気力状態から這い出せぬまま月日が過ぎていく……。そんな彼を救ったのは、友の声だった。


渡辺倒れる

―――1987年『王立宇宙軍』が公開終了し、その後は、どのようなプロジェクトを進められていたのですか?

渡辺:劇場映画として1988年公開を目指していた『AKIRA』と『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』、パッケージの仕事として『王立宇宙軍』ビデオ化ですね。
まず、『AKIRA』ですが、実はバンダイでそれ以前に、同じく大友さんの原作である『童夢』の実写化企画が検討されたことがあったのです。これはルーカスフィルムとの共同プロジェクトでした。1986年頃で、自分は『王立宇宙軍』の準備のため話に参加していませんでしたが、バンダイの社長室の仕事として末吉博彦さんが動かれていました。『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』に登場するスレーブTなどのデザインをしたニノ・ロデス・ジャメロというプロデューサーが、ジョージ・ルーカスの代理人としてやって来ました。話は大友さんも交えて進めていたのですが、諸般の事情から頓挫してしまいました。
その後、講談社さんからの呼びかけで、バンダイは『AKIRA』製作委員会に参加し、自分も委員会に出席したりしたのですが、実際にバンダイが主体となって大友さんと作品づくりをするようになるのは、1995年公開の『MEMORIES』からですね。バンダイとしてのつき合いは古いのですが、大友さんと自分が面と向かってお話をするようになるのは、実は『MEMORIES』の頃からなのです。それが後に『スチームボーイ』の流れへと繋がっていくわけです。
また『逆襲のシャア』でも、自分は製作委員会に参加させていただきました。当時、GAINAXの庵野秀明さんが、メカ作画監督として参加を熱望していたので、委員会に対し自分は彼を強く推挙しています。ただこの頃のサンライズは、まだバンダイのグループ会社ではありませんでしたから、庵野さんも特別扱いされず、他の候補クリエイターとのオーディションにかけられました。庵野版ガンダムのデザインなど興味深いものも数多く提出されたのですが、結局、作品に活かされたのはネオ・ジオンの旗艦レウルーラのデザインくらいになっています。
そして、『王立宇宙軍』のビデオを5月25日に発売することになるのですが、自分は、この直後倒れてしまい、7ヵ月間会社をリタイヤすることになります。

――― 一体、どうされたのですか?

渡辺:いろいろ理由はあったのですが、『王立宇宙軍』という恍惚とした祭りの準備と、それに続く公開にまつわる熱き闘いが終わってしまい、張りつめた糸がピンと切れたようになってしまったようです。また毎日酒を呑んでだいぶ体調を崩していたこともありました。そんなこんなで、ある日気がついたら文字通り動けなくなっていました。口もきけなくなって、会社に出ていく気力・体力など全くありません。こうして数日会社を無断欠勤してしまったので、心配した鵜之澤君が自宅まで来てくれました。あとで聞くと、その時自分は部屋の中に倒れており、彼は慌てて、実家の母親に連絡をとってくれたのだそうです。そして、上京してきた母親に担がれるようにして、自分は郷里の福島に帰ったのでした。
地元の精神科で診断を受けたところ、鬱病だということで、会社を休職することになりました。帰省後は小康状態が続き、何度か快方に向かうこともあり、だんだんと実家の近所を歩けるぐらいになったので、暑い8月の中頃にひとりで上京を試みたのですが、症状が再発し大失敗におわり、結局上京した翌晩に、夜行列車で逃げ帰る羽目になりました。
休職中には会社から見舞いの花束が1回だけ届いたものの、それだけであとは梨のつぶてでした。回復した後に労災で精算するということなのか、休職ということで給料も止められてしまいました。当然のことなのですが、振り込まれるべき自分の銀行口座を見ても給料が入ってない。「ああ、自分はクビなんだな、終わりなんだな」とさらにふさぎ込む毎日が続きました。
そんな1987年の暮れ近くでした。突然、鵜之澤君から電話があったんです。
「お前、どうしてる?」
最初は、この一言でした。
考えてみれば、自分は劇場映画やOVAの企画を全て途中でやり残したままで、引き継ぎもせずに、田舎に引っ込んでしまったのです。当然、ただでさえ忙しい彼の負担は倍以上になったはずです。この頃、彼は『機動警察パトレイバー』の企画準備も始めていたはずです。
それにも関わらず、何の批難もなく、だからといって哀れんでいるような調子でもなく、「どうしてる?」でした。
「一回会おうよ」という鵜之澤君の申し出に、気分がパッと変わってきました。そこで、再び上京し、鵜之澤君に東京の自宅近所のファミレスに来てもらって、いろいろ話をしました。
会社というのは、一度離れてしまうと、再び戻るにはとても敷居が高いものだと感じていました。特に自分は精神的にもう一生ダメだって思っていたわけですから……。でも鵜之澤君に「そういうもんじゃねぇよ」と激励されて、何とか復帰しようという気力が戻ってきました。
またもうひとつ、この時期自分を救ってくれたのは、今は亡き祖母の存在でした。後に「攻殻機動隊」のアニメ化を自分に勧めてくれた祖母です。
特にこれと言った話題ではないのですが、祖母の話しを聞きながら、まだ自然の多く残る福島の風景をぼんやりとながめていると、気分がゆっくりと癒やされていくのを感じました。この祖母との生活も自分をリハビリさせてくれていたのかも知れません。
こうして鵜之澤君の励ましを受け、医師から「回復した」との診断書を半ば強引に取ってきて、翌1988年の1月には会社に出社することが出来ました。


復帰……新たなる戦場は

―――復帰第一弾は、どんな企画だったのですか?

渡辺:ところが、配属されたのはバンダイの総務部人事課だったのです。
この人事課で新入社員リクルート用のビデオを作れといわれたのですが、特に具体的な指示もなく、ろくすっぽやることもなく、机に座って電話をとる日々が、一ヶ月半ほど続きました。一日が本当に長く感じた毎日でした。こうした処遇について「ああ、会社は自分を飼い殺しにして自主退社させるつもりだな」と勘ぐることがたびたびありました。
そんなある日、もと「ぴあ」の黒川文雄さん(第8回参照)から電話をいただいたのです。この頃、黒川さんは、F2という会社を作っており、久々の再会でした。
そうして聞いた話は、バンダイがディズニービデオで大変なことになっているということでした。

―――バンダイとディズニー? 一体何が起こったのですか?

渡辺:バンダイとディズニーは、1987年5月に日本国内のビデオ配給契約を結びました。それで、2月のチャイニーズシアターにおける『王立宇宙軍』のプレミア上映にディズニーの重役連が招かれていたわけです。(第17回参照)
2年間の契約期間内にディズニー・ビデオとして数多くのパッケージを発売して行く予定だったのですが、当時、この件を取り仕切ることになったのが、後に倒産することになる、大手のレンタルCDチェーンの元祖とも言える会社から、バンダイの子会社ネットワークに入り込んできた人間達でした。彼らは、自分らの私腹を肥やすために、裏でかなりアコギなことをやっていたのです。例えば、1,000本注文が来たとすると、販売の見込みもないのにわざと10,000本生産してしまい、アメリカのディズニー本社には「10,000本売れた」とレポートを書くのです。これに対しディズニーの本社側は好印象を持ち、いろいろと便宜を図ってくれる結果となる。それに乗じて、販促の一貫と称して、勝手にいろいろなディズニーグッズを作り始めて、それを利用していろいろ荒稼ぎをしていたらしいのです。一方ではディズニービデオの膨大な在庫の山が続々と築きあげられていったわけです。
このネットワークに入ってきた人間達については、以前からひどい連中だと自分も薄々感づいていて、バンダイの管理担当役員に対して内部告発をし、彼らの所行を調査するよう勧めたのですが、平社員は黙っていろ、と逆に疎まれる始末でした。バンダイが食い物にされているかもしれないのに、全く動こうとしない、この時の会社に対する絶望感も自分が倒れたひとつの原因だったかもしれません。
ともかくこうしてディズニービデオを巡って悪事は進行し、20億円を超えるビデオ在庫の山と、10数億円の未償却のロイヤリティが残っていったそうです。こうなってはじめて、さすがにバンダイ上層部もおかしいと感じて、調べようとしたのですが、いち早く感づいた連中は全員雲隠れするように辞職してしまいました。

―――それにしても、ひどい話ですね。

渡辺:この膨大な負債を立て直すために、バンダイと縁が深い水野プロダクションから、早川忠継さんがバンダイに派遣され、ディズニー課を指揮することになった、という事でした。
黒川さんは、自分にそんな早川さんの仕事を手伝ってみないか、と持ちかけてくださったのです。早川さんと黒川さんは懇意にされていたので、このへんの内情を相談することも多かったと思います。
自分としては、もともとディズニー自体はあまり好きではありませんでしたし、心のどこかで、それ見たことか、という部分もあったので、話はネガティブに捉えました。
そんな自分に対して黒川さんが語ってくれた言葉は今でも心に刻まれています。
「渡辺さんは、この仕事を始めて以来、今までずっと自分の好きなようにやってきた。ある意味勝手もやってきたし、周りに迷惑もかけてきた。だから今度は、他人のために仕事をしてみたらどうですか?」
この言葉に自分は目を覚まされ、早川さんを手伝う決心が着き、自分をリスタートさせることにしたのです。
その後すぐディズニー課への異動が命じられました。早川さんと久々の再会を喜ぶ間もなく、ハワイで開催されるディズニー重役とのトップ会談に同行することになってしまいました。

―――また急な話ですね。

渡辺:契約は1987年5月からの2年間です。自分が異動したのは1988年の3月でしたから、1989年5月の契約切れまで、1年ちょっとしかなかったわけです。無理もありません……。


積み残された在庫の山と未償却のロイヤリティ。残された期間は、わずか1年あまり……このマイナスを好転させるために、日本初のセルスルービデオ戦略が開始される。その結果は……。次回、ついに第一部・最終回。乞うご期待!

(2007/12/21)

 

INSIDE COLUMN
画/大西信之
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