第20回 バトル・オブ・ディズニー
長期間のリタイヤから復帰した渡辺は、ディズニー課へ配属される。ここでは、不貞な前任者によって、在庫の山と未償却のロイヤリティがうずたかく積まれたままであった。これらをいち早く処分し、事態を好転させなければならない。だが、時間はあまりにも短かった……。
日本初セルスルー 一大キャンペーン
―――1988年3月にディズニー課に配属され、矢継ぎ早にハワイでのディズニー上層部との会談に出席することになったわけですが、どのような内容の話をされたのですか?
渡辺:まず、1987年5月にバンダイはディズニーと30億円近い契約金で2年間のビデオグラムの日本国内独占販売契約を締結しました。しかしそれから1年近くが経過したにも関わらず、契約金の半分もロイヤリティ償却が終わっていない。さらに、売れもしないのに作ってしまった在庫の山を処分する資金も必要だったという背景があり、自分が着任した1988年3月時点からすると、1989年5月の契約期間終了まで、1年有余しかなく、もはや一刻の猶予もない状況でした。
そこで早川(忠継)さんのプランで、ディズニーで日本初のセルスルーキャンペーンをやることになったんです。1987年末に早川さんがディズニー課を引き受けることになったのでしたが、その2,3年前からアメリカでは、すでにセルスルービデオが発売されていました。これを日本で展開することによって、難局を乗り越えられないものか? というものだったのですが、その発想は一種博打に近いものでありました。
ディズニーのトップとの会談のポイントは、ビデオの安価での販売許可ということと、さらに重要なこととして、印税率を半分にしてほしいという要求を飲んでもらうことでした。一般消費者に向けて、大量に販売するセルスルービデオですから、当然単価は安くしなければなりません。一方ここで、正規のロイヤリティを取られてしまったら、粗利率も低くなり、巨額の宣伝費との兼ね合いで全くの赤字となってしまいます。
ハワイでのトップ会談で、これらの条件をディズニー側に何とか認めてもらい、セルスルーキャンペーンの実施が決まりました。その発売は7月10日とターゲットも決め、準備が始まりました。
自分が着任する前の1987年の年末に、早川さんたちの手により、3タイトルのビデオを各5800円で販売するテストが行われていました。この結果、比較的好調だったというデータが出ており、翌年夏から本格的にキャンペーンを行う下地はありました。しかし今度は数億円かけ、本格的な宣伝販促を行うというものであり、ここまで大掛かりなビデオのキャンペーンは日本には前例がありませんでしたから、やはり大博打には違いなかったわけです。
―――7月発売ですと、準備期間はわずか4ヵ月ではないですか。病み上がりにも関わらず、急な事態ですね。
渡辺:一気呵成、昼夜兼行で必死に準備しました。
それまでのビデオの宣伝戦略は、全部自分たち自身で決めることが出来ていましたが、今度のディスニーのキャンペーンにおいては、相手が海の向こうで、しかも世界一キャラクタービジネスにうるさい会社であり、その細目までもがバーバンクにあるディズニー本社の承認を得ることが契約書で決められていました。
アメリカの風土に立脚したディズニー流のマーケティングというものを、日本の土壌でうまく昇華しながらやらなければなりませんでした。東京ディズニーランドがオープンして、まだ4年くらいしか経っていない頃のお話しです。
価格を安くするだけではなく、ディズニーの良いイメージを保つことが大事だと何度も言われました。パッケージデザインはもちろん、広告やCFなどのパブリシティに関しても、どの代理店を使うのか、どのメディアに流すのか、予算はどのくらいなのか、何にどう使うのか、スケジュールはどうなっているのか、その他諸々の細目を含むトータル・マーケティング計画を提出して、バーバンクのディズニー本社を納得させないと前に進めないのです。
―――当初は、どんなラインナップが予定されていたのですか?
渡辺:『白雪姫』や『シンデレラ』『眠れる森の美女』といったスーパークラシックと呼ばれる、誰でも知っているA級のアニメ映画作品はまず対象外とされました。ディズニーの各作品には等級があって、『白雪姫』などの作品は7,8年に一度ずつ、売り切っていくメインの作品群とされ、日本への市場投入は時期尚早とされていました。それらのクラスの下ということで、『ピノキオ』『メリーポピンズ』が長編の編成として許可されました。あとはミッキーやドナルドといったディズニーの人気キャラの短編をまとめたコンピレーションということで、『がんばれミッキー』『それゆけドナルド』『ディズニーのなかまたち』が加えられ、さらにこれらのキャラとは少々違う位置づけにある『プーさんとはちみつ』が決まり、全部で6タイトルでキャンペーンを開始することになったのです。
激突! エージェント・ファイファー
渡辺:ただでさえ、制約が多い上に、さらに、ファイファー氏という日本語が達者な若いエージェントが日本代表としていて、実施項目の全ては彼の目を通すことになっていました。
―――いかにも外資系という感じですね。
渡辺:いわば植民地の総督ですね。対する自分は植民地人です。ファイファー氏は、ディズニーの前は製薬会社のセールスマンだった人で、マッチョで多分に杓子定規なところがありました。年齢が近いこともあり、また自分にはキャラクタービデオに関しては一日の長があるという自負もありましたから、よく彼とは喧嘩しました。
一番の大喧嘩は最初のCFの撮影の時でした。絵コンテ準備段階で何度もファイファー氏からリテイクが出て、何とかOKを取り付けた時には、もうこの日に撮影しなければオンエアできない、というギリギリのところまで来ていました。
そんな撮影前日の段階になって、ファイファー氏から、バーバンクのディズニー本社がコンテに対してそれまでと違う意見を送ってきたので、内容を変えてもらえないか、と言ってきたのです。
当初のコンテでは、たくさんのビデオパッケージが天の川のように空を流れてきて、それを見上げる家族の上に『ピノキオ』のビデオが落ちてくるというものでした。これをバーバンクは、もっとシンプルにしてくれ、と言ってきたらしいのです。すでに変更なんて出来る段階ではありませんでしたから、もうファイファー氏に噛み付きましたね。
「あなたは、何度もダメだしをしたあげく、このコンテのプランにOKを出したはずだ! 今まで自分に言っていたあなたの意見は一体何だったんだ!?」
これには、ファイファー氏も困ってしまったらしく、翌日、CFの撮影スタジオからディズニー本社の重役にコンタクトを取り、電話会議をするから、そこで直接自分から理由を説明してくれ、と連絡してきました。この責任逃避にも頭に来て、今更説明などできるかと思ったので、宮本武蔵の巌流島の決闘よろしく、定刻から2時間遅れてスタジオ入りしました。撮影スタジオは代々木公園のすぐそばだったので、「ああ、これでクビかも知れないなあ」と思いながら、園内をぶらぶらと散歩して入ったのでした。この時アメリカはすでに夜になってしまい、重役連は帰ってしまって、ファイファー氏の面目は丸つぶれです。万策尽きたファイファー氏に「元のプランでやります」と言い放って撮影に入りました。
この撮影の終了後、ファイファー氏とふたりで飲みに行きました。当然の事ながら彼には彼の立場もあったでしょうし、自分も崖っぷちで必死に戦っていたのでしたが、その攻防に一区切りがつき、彼に対して喧嘩友達としての感情が急にわいてきて、酒に誘ったのです。
この晩はふたりで痛飲しました。
こうして水際だったCF制作や、徹夜で準備した全国各地でのディーラーコンベンション開催などいろいろありましたけれど、何とか7月の発売にこぎつけました。発売当日はお客様の反応を肌で感じようと、銀座の山野楽器さんの店頭を借りて、道行く人にビデオを販売しました。
このセルスルーキャンペーンは日本の業界初でしたが、結果は上々で最終的に合計で97万本のセールスが出来ました。これを見てのことかもしれませんが、CICが、ちょっと遅れて『ローマの休日』でセルスルーに参入、今も連綿と続く低価格販売の流れができたのだと思います。
大戦終結……結果は?
―――業界初のセルスルーキャンペーンは大成功を収めたわけですね。
渡辺:もうひとつの追い風として、タッチストーン・ピクチャーズのビデオレンタルがうまくいったこともありますね。
『タッチストーン』は今でこそ『アルマゲドン』などで不動の地位にある制作部門ですが、当時の日本では、ほとんど知名度がありませんでした。ディズニーには、過去『狼王ロボ』とか『海底二万哩』とか子ども向け実写映画は数多くありましたが、ディズニーで大人向けの実写映画というのは、まずイメージが合わず、考えられなかった時代です。
『タッチストーン』は1984年公開の『スプラッシュ』から立ち上がったのですが、マイナーだった頃のトム・ハンクスとか、『殺したい女』のベッド・ミドラーとか、『張り込み』のリチャード・ドレイファスとか、映画俳優としてはイマイチ知名度が低いが、TVなどでは人気があった俳優などを集めて、あまりお金をかけないで、脚本の良さとアイディアで回転率の良い映画を作るというのが方針でした。
当時、レンタルビデオショップの拡大期ということもあり、この一見地味なラインナップを、その市場にどう売り込んでいくかが、ひとつの鍵でした。レンタル用のビデオは単価が高いですから、単価が低いセルスルーとは1本ごとの利益が比べものになりません。また未償却のロイヤリティの取り崩しも大きく進む計算でした。
最初はこんな地味なラインアップではダメだろうと思っていたのですが、『張り込み』あたりがパッと売れて、意識が変わりました。レンタル市場がソフトに非常に飢えていた時代だったのが幸いしました。
そこから流通を巻き込みながらのタッチストーン作戦を始めたわけです。契約終了間際の翌年1989年には『グッドモーニング,ベトナム』『スリーメン&ベイビー』『ビッグ・ビジネス』という、派手さはないけれども、内容が面白く、アメリカでは話題だったという作品群を編成でき、結果3作合計で10万本のセールスを記録できました。特に『グッドモーニング,ベトナム』は、同時期にビデオが発売される『フルメタル・ジャケット』と連動したレンタルキャンペーンを計画し、予想以上の効果を招来することができました。
おかげさまで、あがった利益で在庫は処分できて、未償却だったロイヤリティも使い切り、さらに数億円の追加のロイヤリティを払うまでになりました。しかしここで契約終了、ジ・エンドでした。
セルスルー、タッチストーン双方の成功で、日本のマーケットに自信を持ったディズニーは、自らビデオメーカーとして乗り出してくるわけです。
―――他人に下ごしらえさせたわけですね。
渡辺:せっかくここまで来たのに、と悔しくはありましたが、まぁ、ビジネスの展開としてはよくある話だろうと思いました。でも、このディズニーの日本進出のおかげで、ジブリ作品がディズニーの流通で販売されることになり、さらに世界で大いに評価されることにつながった面もあったでしょう。かなり遠回りですが、『王立宇宙軍』の成立を助けていただいた宮崎駿さんへの間接的な恩返しになったのであれば本望と思います。
友への恩返し
―――晴れて、ディズニーもお役御免となったわけですね。
渡辺:1年間突っ走ったおかげで憑き物も落ちたという感じでした。
晴れてエモーションの現場に戻ると、鵜之澤君は、『機動警察パトレイバー』で孤軍奮闘していました。
彼は、自分のやっていたディズニーのセルスルーキャンペーンもキチンと把握していて、『パトレイバー』を30分で4800円という、当時のOVAとしては、かなりの低価格にてセールス展開していました。それが功を奏して、ついに劇場版の製作にまで乗り出すわけです。
その公開は1989年の7月だったのですが、かなりの宣伝費を投下したにも関わらず、映画興行の成績は惨憺たるものでした。結果、鵜之澤君とパートナーを組んで『パトレイバー』を担ってきた東北新社の真木太郎さんが退社することにもなり、その年末のビデオ販売に暗雲がたれ込めていました。
自分は、鵜之澤君に代わって年末のビデオキャンペーンを手伝うことにしました。興行的には思わしくありませんでしたが、内容的には素晴らしい出来の作品でしたから、これなら売れると思いました。何よりも自分をどん底から救い出してくれた鵜之澤君に何としても恩返しがしたかったわけです。
年末まで約4ヵ月。キャンペーンのスピード感としては、ディズニーの時によく似ていましたし、事実、そのノウハウを存分に使いました。
―――具体的には、どのような戦略を展開されたのですか?
渡辺:詳細は語り尽くせませんが、例えば、キービジュアルのデザインは出来るだけシンプルにして、それにロゴやキャッチなどのポイントをどう付けていくか、場面カットの選び方にしても、色合いとか、キャラクターの目線とか、チェックすべき点は多く、ディズニーで学んだことを応用しました。
それでキービジュアルが完成したら、それを徹底的に押していく、お題目のように唱え、遡及させる。ユーザーはもちろん、流通をも見据えたマーケティングをして、具体を着々と進めていくわけです。このへんが、しんどいながらもディズニーで得たノウハウでしたね。
もちろん従来通り、アニメ誌、ビデオ専門誌にパブ記事を組んでいただけるように、直接編集部にお願いに回るなど、地道な作業も忘れませんでした。監督の押井守さんにもドンドン誌面に出てもらいました。
おかげさまで、劇場版『パトレイバー』は、ほんとに限られた宣伝費でしたが、10万本の売り上げを記録することができました。鵜之澤君へ一応の恩返しはできたかもしれませんね。
―――ほぼ1年にわたってお話をお伺いしてきたのですが、激動の80年代を振り返って一言お願いします。
渡辺:徒手空拳、右も左もわからぬまま、ビデオメーカーを創始し、OVAを開始し、グループ初の劇場映画を立ち上げ、業界初のセルスルーキャンペーンを担当することになったりして、無我夢中で駆け抜けてきた時代でした。
「塞翁が馬」という言葉通りでもありました。悪いこともあれば、良いこともある。悪い時でもめげないでやることが肝要だと思わされることの連続でした。もっともこれはいまだに続いていることですが……。
何事も先駆けてやるということは、しんどいと思います。誰かの後をついていった方が楽には違いないでしょう。でも、誰もやっていないことをあれこれとやれたというのは、自分の人生にとってとても意義があったことだったと思っています。
失敗ばかりが経験値として蓄積されてきた感もありますが、そんなノウハウでも、今後世のみなさんに使っていただくことによって、何かが少しでも前進することになるのであったら、喜んで提供させていただきたいと思いますし、今後も自分は常に礎の立場であってもいいのではないか、と思っています。
戦いはつづく……。
<第1部・完>
次回は第1部完結記念として、EMOTIONレーベルのもうひとりの立役者・鵜之澤伸氏のインタビューを掲載予定です。また、第2部のスタート時期については、あらためてご案内します。ご期待ください!
(2008/1/7)