エモーション魂〜渡辺 繁と彼を支えた縁人(えにしびと)

現在、世界が注目するニッポンのアニメーション。
だが、1980年初頭、アニメのビデオソフトは数少なく、OVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)などというメディアは存在すらしなかった。

その道無き荒野に次々と新風を巻き起こし、数々の若き才能を発掘してきたのが“EMOTION(エモーション)”である。
エモーションは、バンダイビジュアルのブランドレーベルであるばかりでなく、現代日本のアニメの文化的、経済的発展の原動力となり続けてきた。

そのエモーションの発展を常に支え続けてきた男がいる。
「渡辺 繁」である。

現在、バンダイビジュアル株式会社の専務取締役であり、株式会社エモーションの取締役社長でもある彼は、その驚異的な情熱と行動力で様々な映像メディアをプロデュースしてきた。
だが、それらは、決して彼ひとりの力だけでは成し得たものではない。そこには、彼を支え、励ました数々の人々が存在したのである。彼らとの縁(えにし)があったからこそ、彼は、今でも走り続けられるのである。
ここに、渡辺 繁と彼を取り巻く才人たちとの四半世紀を振り返ってみたい。



第1回 青春立志 玩具の殿堂へ

夏の日のウルトラマン。子供たちが自分の心に火をつけた

―――まず、渡辺さんがバンダイに入社されたところからお話を伺わせてください。

渡辺:自分が入社したのは、バンダイグループの一社だった株式会社ポピーという会社です。1981年の4月のことでした。

―――ポピーといえば、それまでに『仮面ライダー』の変身ベルトや、『マジンガーZ』の超合金など、現在のキャラクター玩具ビジネスの基礎を作ったメーカーですね。当初は、玩具企画に携わろうと思われたわけですか?

渡辺:というよりは、子供たちを楽しませる映像作りに関わりたいと思って就職したのです。きっかけとなったのは、学生時代のアルバイトで『ウルトラマン80』の玩具の販売促進のお手伝いをしたことですね。

―――『ウルトラマン80』の放映は1980年ですから、就職活動シーズン真っ直中ですよね。

渡辺:そう。1980年の8月でした。自分は法学部の学生で、大学入学当初は当然のことのように法律家を目指して勉強していました。しかし、同窓の友人たちは自分と違って実に頭がいいし、一方、自分は理屈は大の苦手だったので、「こりゃ、法曹には向かんな」と早々に判断してドロップアウトしました(笑)。
ならば、学生のうちに実社会をたくさん見てやろう!と、もっぱらアルバイトに精を出しました。家庭教師などは初歩の初歩で、道路工事から、林間学校の指導員、魚河岸のアルバイトまでいろいろやりました。
その中で偶然巡り会ったのがウルトラマンショーのバイトでした。自分の小学校の同級生がやっていたことを知って、紹介して貰ったのが始まりです。

―――渡辺さんは、アニメや特撮などのファンサークルに所属していたわけではなかったのですか?

渡辺:ええ。そういうファン活動とは無縁でしたね。
ですが、もともと物心ついた時から映画は大好きでたくさん見ていましたし、小学校3年生の時(1966年)に『ウルトラQ』や『ウルトラマン』の放映をリアルタイムで見ている世代なので、ウルトラマンショーのバイトには、興味以上のものはありました。

―――入社のきっかけとなった『ウルトラマン80』のショーのアルバイトというのは、具体的にはどんな内容だったのですか?

渡辺:東京の葛飾区亀有。その駅前にとあるおもちゃ屋さんがあったんです。
『ウルトラマン80』は、当時、ひさびさの実写のウルトラヒーローということで、ポピーがスポンサーとなり、玩具販促の店頭キャンペーンを全国で展開していました。
で、その駅前のおもちゃ屋さんにもウルトラマン80がやって来て、ショーや握手会をすることになったわけです。まぁ、キャンペーンと言っても、そんなに大がかりなものじゃないから人数もほんのわずか。自分が80の着ぐるみに入って、簡単なショーをやって、子供たちと握手して、ウルトラサインを色紙に書くという。
いやぁ、夏の真っ盛りですから、キツかった。1日4キロは痩せました。でもね、着ぐるみのお面の狭い視界の中から、子供たちの姿が見えるわけです。もちろんやっているのは素人の動きだから、正直そんなに格好良くないはず。でも、そんな自分が入っているウルトラマンでも、子供たちは「おおおおっ!!」って歓声を上げてくれるんですよ。
で、いくらしんどくても、ついつい頑張ってしまう。ショーの後のサイン会でも、色紙を持って行列に並ぶ子供たちは、本気でドキドキしながら順番を待ってくれていたんです。そして、そんな子供たちの中に、自分はある小さな女の子の姿をみとめました。その子は、1日3回のショーを3回とも最前列の同じ位置で見てくれて、本当に喜んでくれていたのでした。
あの時見たキラキラとした目の輝きは今も忘れられないほど印象的だった。 この時に自分の中で確固たる覚悟が決まったんですね。
「よし! この子たちを楽しませる仕事に就こう」って。

―――ファンダムの活動とは無縁な分、その決意はピュアな感じがしますね。

渡辺:そうですね(笑)。たしかに、かなり素直な気持ちで「子供のための作品づくり」を人生の進路にしようとして選択したのは、事実ですね。


いざ、ポピーへ! 待っていたのは、綿アメ袋と証紙の山

―――そこで、男子キャラクター玩具の雄、ポピーに入られたわけなんですね。

渡辺:ええ。入社したからには、子供のための映像製作に近い立場にあった商品開発のセクションで、いつかは仕事をしたいと思ったのですが…。
意に反して、最初に配属された部署は、経理部でした。
法学部出身だったんで、版権管理を任せようということだったらしいです。版権管理といっても、最初は商品に貼る「証紙」を版権元に申請し、自分で先方に行って回収するという仕事でした。

―――「証紙」とは商品の許諾契約の証として箱や商品に貼付されるシールですね。実際はどういうタイミングで受領するんですか……。

渡辺:毎週水曜日でしたね、その証紙を東映や東京ムービー、小学館プロなどの版権元に営業車で行って、回収して、それを玩具工場に納品するんです。

―――今、営業車とおっしゃいましたが、それだけの量があるってことですよね?

渡辺:ありましたねぇ。よく憶えてるのは、ちょうど『Dr.スランプ アラレちゃん』ブームの時のことですね。当時、新宿の靖国通り沿いにあった東映動画(現・東映アニメーション)の版権部に伺って『アラレちゃん』の商品に貼る証紙を取りに行ったんです。綿アメの袋用のものなどもありましたから、数十万枚とあるんです。それが、大量の段ボール箱に入っているんで、台車を借りて、版権部のフロアと駐車場を何往復もして運びました。ブームになると、しんどかったですね。

―――綿アメ袋の販売も取り扱っていたんですか?

渡辺:当時、ポピーの開発の長で、同社の常務だった杉浦(幸昌)さんが、下請けのメーカーをコントロールして不正が出ないようにしていたんですよ。
綿アメ袋もそうですが、祭の夜店のお面とか、勝手に型を起こして海賊版を売っているわけですよ。そのへんを取り仕切って正規許諾商品として版権申請から証紙納入まで代行してやっていたんですね。自分はこうした版権管理の仕事を一年近くやりました。

―――商品開発希望が、ずいぶん違った仕事になってしまいましたね。

渡辺:開発担当になるには、普通は営業部、販促部を経て行く必要があるというのが当時の考え方と聞いていました。それからすると経理配属は開発に行けるのとは、全く違うコースなんです。これじゃ、開発マンにはなれない……当時は腐ったこともありましたね。
でも、どんな仕事も決して無駄にはならないと思い直して、自分なりに一生懸命やりました。それがよかったのだと思います。この仕事のおかげで、各プロダクションや製作会社の版権部の方とお知り合いになれた。それぞれの現場の雰囲気の違いというのも直に感じ取ることも出来ました。
中でも日本アニメーションの方とは縁が深かったようです。
自分が担当した当時、日本アニメさんへのバンダイの玩具の商品化申請はほとんど無かったのですが、綿アメ袋の商品化申請だけは、なぜか毎週必ずあったんです(笑)。『フーセンのドラ太郎』や『南の虹のルーシー』とか。だから、銀座の版権窓口のビルに証紙を取りに行くと「おお、また来たの? 綿アメ袋」とか言われて(笑)。
でも、後にエモーションで『未来少年コナン』や『世界名作劇場』のビデオグラムをやらせていただけるようになったのは、この時の縁ですからね。他のビデオの版権を交渉に行くときも、先方のご担当は、証紙引き取りの時、毎週必ず顔を合わせる方々がほとんどだったので、それはやりやすかったですよ。

―――何が、どう繋がるか分からないですよね。

to be continue......

玩具開発を志してポピーに入社した渡辺だったが、まったく畑違いの部署で悪戦苦闘する。だが、その不屈の情熱が最初の奇跡を呼ぶ。

次回「開発部異動」にご期待ください。

(2007/02/21)

 

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画/大西信之
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