![]() 現在、世界が注目するニッポンのアニメーション。 その道無き荒野に次々と新風を巻き起こし、数々の若き才能を発掘してきたのが“EMOTION(エモーション)”である。 そのエモーションの発展を常に支え続けてきた男がいる。 現在、バンダイビジュアル株式会社の専務取締役であり、株式会社エモーションの取締役社長でもある彼は、その驚異的な情熱と行動力で様々な映像メディアをプロデュースしてきた。 第1回 青春立志 玩具の殿堂へ夏の日のウルトラマン。子供たちが自分の心に火をつけた―――まず、渡辺さんがバンダイに入社されたところからお話を伺わせてください。 渡辺:自分が入社したのは、バンダイグループの一社だった株式会社ポピーという会社です。1981年の4月のことでした。 ―――ポピーといえば、それまでに『仮面ライダー』の変身ベルトや、『マジンガーZ』の超合金など、現在のキャラクター玩具ビジネスの基礎を作ったメーカーですね。当初は、玩具企画に携わろうと思われたわけですか? 渡辺:というよりは、子供たちを楽しませる映像作りに関わりたいと思って就職したのです。きっかけとなったのは、学生時代のアルバイトで『ウルトラマン80』の玩具の販売促進のお手伝いをしたことですね。 ―――『ウルトラマン80』の放映は1980年ですから、就職活動シーズン真っ直中ですよね。 渡辺:そう。1980年の8月でした。自分は法学部の学生で、大学入学当初は当然のことのように法律家を目指して勉強していました。しかし、同窓の友人たちは自分と違って実に頭がいいし、一方、自分は理屈は大の苦手だったので、「こりゃ、法曹には向かんな」と早々に判断してドロップアウトしました(笑)。 ―――渡辺さんは、アニメや特撮などのファンサークルに所属していたわけではなかったのですか? 渡辺:ええ。そういうファン活動とは無縁でしたね。 ―――入社のきっかけとなった『ウルトラマン80』のショーのアルバイトというのは、具体的にはどんな内容だったのですか? 渡辺:東京の葛飾区亀有。その駅前にとあるおもちゃ屋さんがあったんです。 ―――ファンダムの活動とは無縁な分、その決意はピュアな感じがしますね。 渡辺:そうですね(笑)。たしかに、かなり素直な気持ちで「子供のための作品づくり」を人生の進路にしようとして選択したのは、事実ですね。 いざ、ポピーへ! 待っていたのは、綿アメ袋と証紙の山―――そこで、男子キャラクター玩具の雄、ポピーに入られたわけなんですね。 渡辺:ええ。入社したからには、子供のための映像製作に近い立場にあった商品開発のセクションで、いつかは仕事をしたいと思ったのですが…。 ―――「証紙」とは商品の許諾契約の証として箱や商品に貼付されるシールですね。実際はどういうタイミングで受領するんですか……。 渡辺:毎週水曜日でしたね、その証紙を東映や東京ムービー、小学館プロなどの版権元に営業車で行って、回収して、それを玩具工場に納品するんです。 ―――今、営業車とおっしゃいましたが、それだけの量があるってことですよね? 渡辺:ありましたねぇ。よく憶えてるのは、ちょうど『Dr.スランプ アラレちゃん』ブームの時のことですね。当時、新宿の靖国通り沿いにあった東映動画(現・東映アニメーション)の版権部に伺って『アラレちゃん』の商品に貼る証紙を取りに行ったんです。綿アメの袋用のものなどもありましたから、数十万枚とあるんです。それが、大量の段ボール箱に入っているんで、台車を借りて、版権部のフロアと駐車場を何往復もして運びました。ブームになると、しんどかったですね。 ―――綿アメ袋の販売も取り扱っていたんですか? 渡辺:当時、ポピーの開発の長で、同社の常務だった杉浦(幸昌)さんが、下請けのメーカーをコントロールして不正が出ないようにしていたんですよ。 ―――商品開発希望が、ずいぶん違った仕事になってしまいましたね。 渡辺:開発担当になるには、普通は営業部、販促部を経て行く必要があるというのが当時の考え方と聞いていました。それからすると経理配属は開発に行けるのとは、全く違うコースなんです。これじゃ、開発マンにはなれない……当時は腐ったこともありましたね。 ―――何が、どう繋がるか分からないですよね。 to be continue...... 玩具開発を志してポピーに入社した渡辺だったが、まったく畑違いの部署で悪戦苦闘する。だが、その不屈の情熱が最初の奇跡を呼ぶ。 次回「開発部異動」にご期待ください。 (2007/02/21)
|