藤津亮太のAnime喜怒哀楽

第14回 逆上のシャア

富野監督の語る「逆上」 イラスト/KEI-CO

あるインタビューの時、富野由悠季監督がこんなことを言ったのを覚えている。
自分は殺人が描けない。もし人が人を殺すとしたら、その瞬間は逆上していたのだ、というふうにしか考えられないからだ――。
作中であれだけキャラクターを殺してきた――しかもかなり悲惨なシチュエーションで――富野監督が、「殺人が描けない」というのはなかなかおもしろい話である。
そしてさらに印象深かったのは、富野監督が「逆上といえば、この国を“とってやる”というのも、逆上しなければできないことだ」と話を続けたこと。ここに出てきた「国をとってやる」というのは革命とか戦争とか、そういうものを起こしてしまおうという気持ち、ということだろう。
殺人という私的行為も、革命・戦争といった社会的行為も、ともに感情が激して逆上しなくてはできない。逆上のエネルギーだけが、常識や道徳を飛び越えることができる、というわけだ。
そういえば夏目漱石も『吾輩は猫である』の中で逆上を取り上げているのだが、これもまた富野監督の逆上論とかなり近い。
「職業によると逆上はよほど大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。その中(うち)でもっとも逆上を重んずるのは詩人である。詩人に逆上が必要なる事は汽船に石炭が欠くべからざるような者で、この供給が一日でも途切れると彼れ等は手を拱(こまぬ)いて飯を食うよりほかに何等の能もない凡人になってしまう。もっとも逆上は気違の異名(いみょう)で、気違にならないと家業(かぎょう)が立ち行かんとあっては世間体(せけんてい)が悪いから、彼等の仲間では逆上を呼ぶに逆上の名をもってしない。申し合せてインスピレーション、インスピレーションとさも勿体(もったい)そうに称(とな)えている。」
『吾輩は猫である』という作品故、かなりからかい調子ではあるが、要は、詩人のいうインスピレーションとは、常識や道徳を飛び越えてしまう逆上の言い替えに過ぎない、という意見が展開されているのだ。
とにもかくにも、殺人者にせよ、革命者にせよ、芸術家にせよ、逆上こそ彼らを跳躍させる最大の力ということのようだ。
さて、では逆上というキーワードを念頭に入れつつ、富野アニメを思い返してみると、印象的な敵方のキャラクターの何人かは、確かに「逆上」を心中に秘めていることに気付かされる。
たとえば『伝説巨神イデオン』(80)のハルル。彼女は、異星人のパートナーとその子供を得た妹カララに嫉妬心を抱いている。さらに、ハルルの元恋人ダラム・ズバはその異星人の操る巨神イデオンに殺された。嫉妬と恨みが渾然となった逆上がハルルを戦場へと駆り立て、ついにハルルはカララを自らの手に掛ける。


逆上する理由

逆上というのなら『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(88)のシャアも忘れてはいけない。
シャアは、重力に魂を引かれた人々を見捨て、巨大隕石アクシズを地球に落とすことで彼らを粛清しようとする。彼は、そのような圧倒的な暴力だけが人類を正しい方向に導く道だと――『機動戦士Zガンダム』(85)の経験を経て――思い到ったのだ。ハルルが、個人的体験から逆上に到った「殺人者の逆上」の要素が強いのに対し、シャアの場合は、社会の状況にいらだち逆上する「革命者の逆上」の側面が強い。
もちろん、「革命者の逆上」とはいえ、シャアにはアムロとの戦いにこだわる個人的な理由もちゃんとあったのはご存じの通り。シャアは、自分からララァを“奪った”アムロへの嫉妬心を抱えている。それがシャアを逆上させ、最新技術サイコフレームをわざわざアムロの属する連邦軍にまでリークするという、常識はずれの行動をとらせる。最高のモビルスーツに乗ったアムロを倒さない限り、シャアは納得できなかったのだ。このあたりのシャアの心理を考えると、やはりそこには「逆上」があったのだ。
『逆襲のシャア』でおもしろいのは、前述の通りシャアにはアクシズを落とすに足る思想があり、アムロに拘泥する理由が明確にあるのだが、対するアムロのほうは――使命感を除けば――戦いに向かう動機がそれほど明確に描かれていない、という点だ。
これは『逆襲のシャア』に限ったことではない。富野監督のアニメは、敵サイドには明確な思想的バックボーンがあるのに対し、主人公サイドには明確な思想を持たない、という構図がしばしば登場する。
では、主人公サイドは何を理由として、敵の行動を阻止しようとするのか。実は主人公サイドはしばしば、敵の「逆上」をこそ問題視し、その行動を止めようとするのである。
たとえば『逆襲のシャア』の、アムロのセリフ。
「貴様ほど急ぎすぎもしなければ 人類に絶望もしちゃいない!」
これは言い替えれば「シャアは逆上しているが、俺は逆上はしない」という宣言でもある。つまり現状認識は二人とも大差がないのだが、それに対して逆上するかしないかが、二人の争点となっているのである。
そして同時に、このセリフは逆説的に逆上に到るポイントも実に巧みに抑えている。一言でいえば、「(結論を)急ぎすぎ」ていて、それ故、一旦「絶望」した人こそが、自分の望む状態を手に入れるために逆上し、殺人者や革命者となるのである。
もちろんこれは富野アニメだけのことではない。ほかのアニメに目を向ければ『さよなら絶望先生』(07)の糸色望も、『コードギアス 反逆のルルーシュ』(07)のルルーシュ・ランペルージもまた、立派な逆上キャラだ。そして現実にあっては、テロこそ逆上の最たるものである。世界は逆上に充ちている。
大事なのは、詩人が逆上をインスピレーションと呼び、シャアが逆上を大義の中に押し隠したように、逆上は別の姿に擬態をして存在している場合が多い、という点だ。
逆上は常に、正義や公正さの隠れ蓑を身にまとう。これもまた逆上の重要な特徴の一つなのである。


(2008/01/21)


※『吾輩は猫である』の引用は青空文庫より

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