
INTERVIEWS

part 1
それまでのアニメの常識を破ったのが『ヤマト』でした
──『宇宙戦艦ヤマト』に作画監督として関わることになった経緯を教えてください。
芦田 今からもう34年前になるんですね。30歳になるかならないかのときです。
──もうバリバリにアニメーターとして活躍している頃ですね。
芦田 その頃、所属していた虫プロダクション(※1)が倒産しまして。
──そのときは芦田さんご自身は、どんな状況だったのですか?
芦田 虫プロにいたアニメーターたちは、いくつかのグループに分かれていったんですけど、ひとつはサンライズ(※2)ですね。もうひとつはグループ・タック(※3)。それから「換気船」というフリーの集団があって、私はその中のひとりでした。メンバーは、私をふくめて虫プロで『ムーミン』(※4)をやっていた人たちがメインです。それで、たまたま『宇宙戦艦ヤマト』の話があってやることになりました。そのほかにも白土武(※5)さんや望月敬一郎(※6)さんといった人たちがスタッフに加わりました。
──芦田さんは第1話の作画監督をされていますね。
芦田 第1話はね、確か岡迫亘弘(※7)さんがやるはずだったんですよ。でも急に入院されることになりまして……。それで私がやることになりました。ヤマトのキャラクターは私が描いたものもありますけど、大半は岡迫さんが描いたものです。
──『ヤマト』には16ミリのパイロット版(※8)があって、それをお作りになったと聞いていますが。
芦田 ええ、やりました。あれはだいぶ原画を描いた記憶があります。
──パイロット版があったということは、それなりに準備期間に余裕があったということですか。
芦田 結構ありましたよ。シナリオが決まるまでがいちばん時間がかかりましたね。ただ、現場に入ったときはかなりタイトなスケジュールでした。
──作画の視点から見ても、『ヤマト』はそれまでになかった試みがなされた作品ですね。
芦田 そこまで言えるかどうかわからないけど、どんどん作画が大変になったという面はありました。たとえば、第1話でガミラスの遊星爆弾が地球に落ちてくるシーンとか。
──ああ、岩が剥がれて吹っ飛ぶところですね。
芦田 それまで、アニメで描かれる岩というのは、みんな丸かったんです(笑)。ごつごつした感じがないんですよ。でも崩れた岩が丸いということはないだろうと。
──それがリアルな描写につながったわけですね。
芦田 普通こうだろう、と思いながらやってただけなんですけどね。私は虫プロの前にエイケン(※9)にいたんです。そこで『サスケ』(※10)や『忍風カムイ外伝』(※11)をやっていたときに、岩が剥がれるシーンを描いたりしましたけど、あれをもっとダイナミックにしたのが『ヤマト』なんです。私がそういう作画をしたからというわけではないんですけど、そのあといろんなアニメは、遠くの方から近くまでビルが破壊されていくようなシーンを描いたりして、自分でどんどん大変にしていっちゃったんです(笑)。 あと、キャラクターについても、デスラーやスターシャといった八頭身のキャラと、佐渡先生のような二頭身のキャラが共存しているんです。そういう意味では画期的な作品だっと思います。
──芦田さんをふくめた当時のスタッフの方々には、新しいものを作ろうという気概のようなものはありましたか。
芦田 いや、そういうのはあまりなくてね。ただ、放映当時は、裏番組が『アルプスの少女ハイジ』で、あと『猿の軍団』もあって、『ヤマト』はどう見ても三番手でしたから、マイナー感というものは常に持ち続けていました。
──メジャーな作品ではできないことをやろう、という感じですか?
芦田 結果的にそうなってますけどね。ただ『ハイジ』も面白かったですし、自分も見てましたから(笑)。これは当時のスタッフの話なんですけど、父親が一所懸命『ヤマト』を作っているのに、その子供が「『ハイジ』見たい」って言ったらしいです。で、無理矢理『ヤマト』を見せたという(笑)。
──小さい子供にとっては、難しすぎたのかもしれませんね。SF作品としても画期的でした。
芦田 監督の石黒昇さん(※12)がSFに強い人でしたから、ずいぶん助かりました。たとえば、宇宙で爆発したらどうなるんだろうと。引力がないからきっとゆっくり爆発の煙が広がるんだろうな、とか、そういうシーンが随所にあるのが『ヤマト』です。あと宇宙に浮かぶ星が画面の手前と奥で動きが違う場面とかね。あれだけで感動しますよ。『ヤマト』は確か『スター・ウォーズ』の前ですよね?
──『ヤマト』の最初の放映は1974年ですから。『スター・ウォーズ』の公開は77年です。
芦田 じゃあすごいじゃないですか。『スター・ウォーズ』は『ヤマト』の真似かもしれない(笑)。
──70年代後半はSFブームになりましたから、『ヤマト』はその先駆けの作品として歴史に残るものだと思います。
芦田 『ヤマト』がなければ、そのあとのSFの形は変わってきたんじゃないですか。巨大なエポックメイキングな作品であったことは確かです。
(part2につづく)
※1 虫プロダクション
手塚治虫が1961年に設立したアニメ制作会社。63年に日本初のテレビアニメシリーズとなった『鉄腕アトム』など、多くのアニメ作品を制作。富野由悠季、杉井ギサブロー、出崎統、りんたろう、高橋良輔など、多くの才能を輩出した。73年、経営悪化のために倒産。
※2 サンライズ
虫プロから独立したスタッフが1972年に設立。77年に初の自主作品『無敵超人ザンボット3』を制作。79年の『機動戦士ガンダム』でブームを引き起こす。
※3 グループ・タック
旧虫プロダクションの音響スタッフの要であった田代敦巳音響監督が、 1968 年に旧虫プロ出身でフリーで活躍していた杉井ギサブローたちを招いて設立した会社。当初は他社制作アニメ作品の音響制作を中心にしていたが、 1975 年制作の長寿作品となる『まんが日本昔ばなし』でアニメーションの元請制作を開始する。現在は、アニメーション関連の全てを事業内容としている。
※4 ムーミン
1969年10月から70年12月までと、72年1月から12月までの2回にわたってフジテレビ系列で放映された。企画製作は瑞鷹エンタープライズ。当初は東京ムービーが制作していたが、途中から虫プロに代わっている。ちなみに『ムーミン』のアニメはその後、90年にテレビ東京系列で『楽しいムーミン一家』が制作されている。
※5 白土武(しらどたけし)
アニメーション演出家。『ヤマト』では作画監督や絵コンテをつとめる。その他、『キューティーハニー』(73年版)の作画監督、『キン肉マン』の演出・作画監督などで活躍。
※6 望月敬一郎
芦田氏と同時期に、虫プロで原画を担当していたアニメーター。「換気船」のメンバーとして活躍する。現在はアニメ制作会社・ジーアンドジーディレクションの代表取締役をつとめている。
※7 岡迫亘弘
虫プロでアニメーターとしてのキャリアを積んだあと、アニメ制作会社・日本放送動画や土田プロダクションで『夕焼け番長』の作画・演出や『キャプテン翼』などのキャラクターデザイン・作画監督などをつとめる。現在はアニメ制作会社・スタジオ・ヴィクトリーの代表取締役。
※8 パイロット版
スポンサーや広告代理店に見せるテストフィルムのこと。『ヤマト』の場合、15分ほどのフィルムが制作された。内容はほぼテレビシリーズ本編と同じだが、クラシック曲が使われたりするなど、若干の違いがある。完成度が高く、ヤマトが地球を飛び立つシーンなどは、本編や劇場版でも使われている。
※9 エイケン
『鉄人28号』や『スーパージェッター』などを制作しているアニメ制作会社。国民的アニメ『サザエさん』の制作会社としても名高い。
※10 『サスケ』
1968年にTBS系列で放映された、白土三平原作のアニメ作品。芦田氏は本作品の作画を担当。『ヤマト』関係者では、服部半蔵役に納谷悟朗さんがキャスティングされている。
※11 『忍風カムイ外伝』
『サスケ』と同じく、芦田氏が作画を担当した白土三平原作のアニメ作品。1969年にフジテレビ系列で放映された。『サザエさん』の前番組である
※12 石黒昇
虫プロの『鉄腕アトム』の原画やスタジオ・ゼロの『怪物くん』(第1作)の演出をつとめたあと、『ワンサくん』の絵コンテを担当したことがきっかけで、『ヤマト』の演出に携わる。1978年、アニメ制作会社・アートランドを設立し、『超時空要塞マクロス』や『メガゾーン23』などを手掛ける。
イラスト:芦田豊雄 |
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